欧州遠征録【11】チェルノブイリ原発ツアーに参加したお話
随分ご無沙汰しておりましたが、再びブログを書きたい衝動にかき立てられて戻ってきてしまいました。まだ読んでくださる方がいるのかも分かりませんが、久しぶりに色々書き散らしてみたいなとは思います。
しかし、、、まさかこう、前回の記事からすぐ自分の大好きなウクライナとロシアが世界を巻き込む大戦争をすることになるとは思いもしなかったし、これから書く記事で紹介する原発もベラルーシから国境を突破してきたロシア軍に一時占拠されたりと、歴史の表舞台に返り咲いてしまうという事態に陥っていた。
もう何もかもがびっくりだよね。。。
戦争の予測は立てられんかったとはいえ先見の明がありすぎると自分で言いたくなるね。
行きたいと思っていた世界遺産や観光地、建物がね、いつまでもそのままの状態で残っているとは限らない。
2019年の10月頭に首里城を訪れたらその月末には燃えたのだから間違いない。
てか、ノートルダムも行って2年後くらいには燃えたし・・・ウクライナは言うまでもなく。
俺がそこに行くと燃えたり戦争になるのかもしれん・・・
観光地は逃げたりしないとかいう人がいますけど、そんなのは嘘です。
まじで燃えます。今すぐ行け。行けるうちに這ってでも行くんだ。
さて、そういうわけである意味貴重な体験記?旅行記?・・・となるかもしれないので、読んでいただけたらな〜と思います。
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いざ、ツアーの集合場所へ
今日は(2016年9月17日)チェルノブイリ原発ツアーに参加すべく、朝早く起きてホテルのロビーに集合する。
昨晩一悶着あったS先輩(※前回の10を参照)は、相変わらず朝から機嫌が悪そう。
機嫌を損ねぬようにT先輩と協力しつつホテルからタクシーを呼んでツアー開始場所を訪ねることに。
・・・前回の記事の終わりらへんでも触れたことだが、ウクライナのタクシーは普通に乗るとぼったくられる。ウクライナに限った話ではないんだけど。
東欧圏に行くと絶対にぼられる。
今にして思えば本当に汚職や犯罪が横行していたヤバい国だったんだなと実感してしまうね。夜道を歩くだけならモスクワの方がずっとマシな気もする。
最近テレビやSNSではウクライナが何でもかんでも良いかのように取り沙汰されるが、少なくとも2016年時点では本当に色々とダメダメ国家だったんだ、というのは知っていてほしい。
ゼレンスキー大統領になってから色々・・・特に汚職はかなりマシになったらしいけど。
だからこそプーチンは彼が許せなかったんだわ。隣国にクリーンな・・・いかにも西側的な民主主義国家なんかできてたまるか〜〜〜と焦って侵攻しちゃって・・・
そんで返り討ちにあったんだが。
ともかく今回の戦争が彼らの愛国心や団結心を高め、その結果、マフィアによる犯罪もそうだし軽犯罪までもが減少した、というのは結構皮肉が効いたお話だろう。
このブログ名にも使っている「リヴォフ」というのは、ウクライナ西部の古都リヴィウをロシア語で言ったもの。ウクライナ人の精神的支柱になっているシンボル的な街だ。ブログ名に使うくらい好きである。
・・・そんな素敵な街をソ連時代の呼称で用いているのはウクライナ民族主義的にも今の時勢的にみても色々と最低なのだが、日本人的にはやっぱロシア語の方が語感が良いし、しばらくはこのままでいこうと思う。
そもそもキーウよりキエフの方がなんかすきだし・・・?(最低)
オデーサよりオデッサの方が言いやすくない・・・?
そもそもチェルノブイリだってウクライナ語ではチョルノーヴィリなんだし、そんなこと気にしてたらほんとにキリがない。
やっぱ長年聞き馴染んだ言葉の方が良い。だから、なんというか安易な言葉狩りはちょっと苦手というかぁ〜〜・・・
皆さんも世間体をあまり気にせず、そういうのを気にする人の前でだけ正しい歴史認識を持ってお上品な言葉遣いをして、あとそれ以外の場所では好きな言葉を吐けばいいと思うの。
二枚舌を使って賢く生きよう。
話は逸れたが、
とにかくぼったくりを避けるにはホテルから呼んで貰うのが一番。実際良心的なタクシードライバーしか来ないし(おそらくは)。
原発ツアー参加者はキエフ中央駅の近くのバス停に集合とのことで事前にメールが送られていたのだが、そのメールの文面に記載された住所をタクシーの運転手に見せたらすんなり連れて行ってくれた。
昨晩タクシーでこのホテルに来た時よりずっと安かったね。500円くらいか???昨日は2〜3000円近く取られたからさ。
集合地点についたらもうすぐにそれらしいバスが見つかった。
フロントガラスに核のシンボルマークが描かれたプレートが置かれていたので、どう見たってもうこれしかない。
今回のツアーガイドはマキシムというウクライナ人だ。英語が堪能なので、ロシア語一ミリしか理解できんしほぼ英語しかわからん我々にとっては神である。英語でさえかなり怪しいが。
さっそく届いていた予約メールを見せたらバスに乗せてもらった。そして我々はこんなマップを受け取る。
ああ、チェルノブイリ原発の周辺地図かあ。なるほど、ここをこうやって回るのかあ・・・という感じ。基本的にはチェルノブイリ事故で退避させられた人々が捨てた家とかの廃墟を回るらしい。
右上には本人の名前とか日付を書いてもらうのだが、その下に気になる箇所があるでしょ。
mSv・・・放射線が好き、詳しい人ならすぐ分かるだろうが、これは放射線被曝量を表す単位。いわゆるシーベルトのこと。
放射能・放射線に関する単位にはキュリーとかベクレルとかも使うけど、シーベルトの場合は特に人体に与える放射線の影響を表す際に用いるのが一般的。ちなみに人間の致死量となる被曝線量は6Sv〜8Sv程度と言われている。
これを聞くと1999年に起こった東海村JCO臨界事故を思い出してしまうね・・・。
あの時被曝した人は確か12Sv〜15Svくらい被曝したんじゃなかったかしら?それより酷かったとも言われてるけど。
詳しく知りたい方は「朽ちていった命」という本をご参照ください。被曝治療83日間の記録が詳細に綴られていて、あまりの悲惨さに随分重苦しい気持ちになってしまう・・・。
そういうわけで被曝線量を計測する欄があるってことは、そういうこと。
ここから先が割と危険なエリアであるということを意味している。そういえば誓約書にサインさせられたな。
さて、今回の旅で我々はどの程度被曝するのだろうか。
茂みの奥に潜む廃墟の数々
気づいたらバスはもうキエフからベラルーシの方面に向かって出発していた。
美しい景色を楽しむのも束の間、すぐに廃墟の片鱗が我々の視界に飛び込んでくる。
どうやらチェックポイントについたらしい。
ここではウクライナ軍の兵士が警備に当たっていて、我々は一度バスから降ろされてパスポートのチェックを受ける。でもそんなに緊張するようなものでもなく、荷物検査なども特段ない様子。
パスポートチェックが終わるとすぐにバスへと乗り込み、ついに立入制限区域内へとバスが動き出すのだった。
相変わらず美しい景色が続く。人気が全然なくてちょっとばかり不気味な感じもするけどね。
ここもつい最近ロシア軍が攻め込んでいたのだと思うと、不思議な感じだ。
ある程度進むと、我々はバスを降ろされて茂みの奥にひっそりと佇む廃墟に案内された。
うぉぉぉぉ。
いかにもウクライナ・・・というかスラヴ的な民家だ。
こういうのはモスクワやキエフのような都市部ではなかなか見れないので新鮮極まりない。
まあ廃墟なのが残念だが・・・。
他にも何軒かいろんな廃墟を案内してもらう。どの廃墟も茂みに埋もれていたのが印象深い。草木や木の葉には放射性物質が残留しているから、なるべく触れてはいけないと釘を刺されていたので基本長袖で茂みの中を行く。
まあ半袖な人もいるけどさ。
不気味ではあるが、ソビエト時代の暮らしぶりの残穢が程よく残されているのでポンペイのようなタイムカプセル感がある。
放置された車両に巨大なレーダー塔
茂みの中の廃墟を彷徨うこと小一時間、一区切りついて開けた道路に出たところで再びバスに戻り、次のエリアへと向かうことに。
これでもかってくらい廃墟を車窓から見せられながら、バスは進む。
その時車内では英語でツアーガイドのマキシムが色々と解説してくれてた。
何言ってたかって・・・
うーん、そりゃ・・・
リスニング能力が死んでいる自分には微かにしか分からんね
ある程度したところでバスが停車して、なんか、すごいところに降ろされたのだが。
トラックやら装甲車やらが並んでいるが、これは原発事故の際に除染作業に従事したもの。
原発の除染作業では何人もの消防士やソ連兵士が駆り出され、結果として非常に多くの犠牲を生むことになった。
たしかその惨状は当ブログでも以前レビューを書いたドラマ「CHERNOBYL」でも取り上げられていた気がするのだが、東海村事故のような犠牲者が1、2人単位ではなく数十人、数百人(あるいは、もっと)の規模で引き起こされた。尋常ではない。
特に熾烈を極めたのは原子炉建屋の屋上に蓄積した黒鉛を取り除く作業・・・。
現場の放射線量はあまりに強いため数十秒しかとどまれず、兵士はバケツリレー方式で積もった高濃度の放射線を発する黒鉛を除去する。
さすがに人間では酷だ、、、ということでロボットが投入されたが、放射線をもろに浴びると機械は色々おかしくなる。
まあそんな事情で、結局人間によるバケツリレー方式が選択されてしまったわけだが。
・・・人間はロボットみたいにすぐには壊れないし。
茂みを抜けたで突然現れる巨大な電波塔。ソ連時代の軍のレーダーとかなんとか。
君たちはデカいものが大好きだね・・・。
まあレーダー塔もすごいけど、どちらかというと空の青さに目を惹かれる。
ほんとになんでヨーロッパってこんなにお空が綺麗なんだ。
そしてまたバスまで戻って乗車し、バスは別のエリアに移動する。するとついに今回一番生で見たかった建物が次第に姿を表す。
ここで30年前(2016年当時)さまざまなドラマが繰り広げられたと思うと胸が熱くなる。
そんで、この川に架かる近くの鉄橋をみんなで歩いた。
またバスに乗って、今度はかなり近くまで来たね。というかもう原発の敷地内だ。どうやら近寄れる限界はここまで。
こうしてみると目の前に不気味な怪物がいるような感じ。
あの石棺と呼ばれるコンクリートの構造物は事故後に命懸けの作業によって作られたもので、この石棺のおかげで放射線の流出を食い止めた。
建設に従事した作業員のことを考えると居た堪れない。そして、あの中には回収できなかった原発作業員の遺体が今もあるとかないとか。
二度と回収できないし、回収できたとて放射性物質として扱われて鉛の棺に入れられて地中深くに埋葬される運命にある・・・なんとも悲しい話だ。
お昼になってまたバスで移動し、新しめな施設に案内された。
案外勘違いされるがチェルノブイリ原発には原子炉がいくつかあって、事故を起こした原子炉以外は現在も稼働している。
当然そこでは原発作業員が働いており、常にキエフや周辺地域に電力を供給しているのだ。
そんなわけで我々の案内された施設は原発の作業員用の食堂で、ツアー参加者はここで社食を味わうことに。ウクライナ料理ボルシチは結構美味しかった。
原発事故で全体が廃墟となった街、プリピャチ
このあとまたバスに乗って次の目的地プリピャチへと向かった。
バスの中では1980年代のソ連時代のプリピャチ市内の暮らしを写した映像がモニターから流れていて、ソ連時代の悲壮感たっぷりな歌も流れていた。
なんとなく80年代にタイムスリップしたような気持ちに浸る。
廃墟の校舎を進んでいくとやがて、狭い入口をくぐって校舎の屋上へと出る。
地上を歩いているときは生い茂った草木で、ここが町だったという実感が湧かなかったのだが、こうして屋上からみると高い建物がよく見えて街の全貌が掴めてくる。
全部廃墟かあーって思うと悲しくなるよね。
校舎を出て、街の中を歩く。すると遊園地のような場所に行き着いた。
近くの水溜りで、ツアーガイドのマキシムがガイガーカウンターを近づけて見せたところ、それはビビビーーと音を鳴らした。つまり、強い放射線濃度を示している。
地上の木の葉や水溜りには特に放射性物質が蓄積しやすいとのこと。
そんな我々はそんなマキシムと少しだけ会話をした。「ここはフクシマの30年後の姿だ」っていう彼の言葉は、なかなか印象深かった。
やっぱりウクライナ人にとっても福島はそれなりに大きな存在なのかもしれない。
そんなわけでバスに乗り込み、我々は帰途に着く。ツアーは何事もなく無事終了した。
帰りに見た夕焼けはめちゃくちゃ綺麗だったな。
あと、行きがけでパスポートチェックとかされたチェックポイントで、またバスを降ろされて何事かと思ったらよくわからん機械を通らされた。
どの程度被曝しているかを調べるらしい。多分。
で、結果として何mSv被曝したか・・・
最初の方にもらった例のマップに書いてもらったんだが、そのマップを失くしてしまって忘れてしまった。また出てきたら言います・・・。
けどめっちゃ少なかったよ。1mSVも被曝してなかったはず。まあそんなもんなんですよ実際、福島だってそう。
飛行機に乗ったりレントゲン検査受けたりしたときの方が被曝します。オゾンホールのポッカリ開いたオーストラリアに行く方がやばいんじゃないかな。
というわけでまたお会いしましょう。また。
欧州遠征録【10】さよならベルリン→ウクライナの首都キエフへ
珍しく数日ぶりの投稿です。
今なんとか筆がのってるんですよね。筆のってる時に一気に畳みかけたいタイプなので。
このまま、なんかいい感じに筆がのってくれればかなり嬉しいけど、多分本格的に仕事が始まったらこうは行かなくなりそうだ。。いやあ、がんばりますよ。せめてこのシリーズだけは年内に完結…
いやはや去年もこんなこと言っていたな・・・、
はい今年こそは書き上げます(断言)
(2016年9月16日)
ベルリンで普段通り心地よい朝を迎えました。
けっこう朝早くでしたっけ、まあここに来てから毎回朝早くに叩き起こされての移動ばかりだったからすっかり慣れっこですけど、とにかく眠い体を無理やり叩き起こしながら荷物をまとめ、先輩たちのいる部屋に向かう。
T先輩はもう準備が整っているようで、S先輩に一人でちゃんとキエフまで来れる?などと確認していた。
ほーん、カップルって感じ、と言わんばかりに僕は戸口から虚無の目でそれを眺めます。
ちなみにS先輩とは一旦お別れといいますか、彼女とはあとでキエフのボリィスピリ空港で合流することになっている。
何故こんなことになっているのかというと、前々回にもお話しした通り彼女は現在アイルランド留学中なので、我々二人とは航空機の予約方法が違うのだ。
彼女と半日ではあるが、一旦離れられるというのは実にありが…いえ、とにかくこれでまた、これまでの旅同様にT先輩と一緒に空港に向かうことになった。
なんだろう、この嵐が過ぎ去った後のような安心感。
我々はホテルのそばの駅から電車に乗り、中央駅まで出て、そこからバスで空港に向かいます。
そんなこんなで。
今日はトラブルもなく比較的スムーズに空港へとたどり着いた。
振り返ってみれば前々回のドレスデンみたいに変なところで途中下車することもなく大変スムーズにいっていますね…。
ちなみにベルリンのテーゲル空港から直接ウクライナのキエフ・ボリィスピリ空港まで行く便ではなく、乗換のために一度は通過した南ドイツ・ミュンヘン空港に舞い戻ることになっていた。
今日も今日で1日乗り換えと移動だけで時間が潰れそうというわけですね。
空港って出発時刻よりもずっと早くから行っておかないと不安になるから結構大変だよ。
さて、、、まぁ特にこれといって、大した困難もなく空港についた我々だが、時刻表や乗り場を確認した後はもはやできることもなくなってしまう。今更ここでお土産買う訳もないし。バッグをごそごそいじくってハリボーのグミを食ったり、あとは
あとは。。。
あとは、、、ほら
当然ビール。最後のドイツだからね。
白ソーセージをシュバルツビア〜(黒ビール)と一緒にいただきます。
やはり昼間に飲むのはビールに限ります。最高。これ以上素晴らしいものなんかないだろ。
でももうこのソーセージとビールを格安で召し上がる機会はなくなるというわけで、それはさすがにショックというか、悲しいところがある。
みんな飯がまずいだのドイツのことを好き放題言うが俺としてはもうビールと肉のつまみがあれば生きていけるんでまずいと思ったことは一度もない。
さすがに野菜は何度か欲しくなりましたけどね。旅行中ケツがおかしくなった。
ヴァイス・シュバルツビア(白・黒ビール)とヴァイスブルスト(白ソーセージ)、、、今回のドイツ紀行で覚えたドイツ語はこの程度である。ああ、あとザワークラウト(キャベツの酢漬け)。どれも素晴らしいドイツ語だ、うまそうなので。
ちなみにパウラーナーとエルディンガーというドイツのビール酒造にも今回の長旅では大変世話になったので日本に戻ったら是非見つけ出して味わいたいと思った。
最近だと業務用酒店とかで簡単にこれらのビールは手に入る。
通販でも送料が割高だが、比較的簡単に手に入るのでこれはかなりお勧めしたい。
なんかもう旅で飲んだビールの記事を他で一本書いてもいいくらいだなあ。
けど、やっぱ一番美味かったのはドレスデンのホテルで飲んだあのビールなんだけど、調べてみるとドレスデン近郊のご当地ビールしかヒットしなかったんですよね〜。。。
つまりは日本じゃまず手に入らん。
あのビールも死ぬ前にもう一度味わいたいなと思いますね。疲れてたから倍美味く感じたってのもあるけど。なんで早くまたドイツに行かせてくれ。もう一度行かないと死ねない。
さて、飯も食い終わったらいよいよすることがなくなりますね。。。
ミュンヘン空港はクソでか国際空港なので、空港内の移動には電車を使います。
人もさほど多くないターミナルにやってきました。さて、さっさと出国審査を終えてしまいましょう。
当然ながらここのエリアにはほぼドイツ人(というか白人)だらけで日本人はおろかアジア人の姿は全く見えない。そりゃそうだ。
入国管理官は三人ほどいたので、我々はその前に並ぶ行列で二手に分かれる。
ドイツ人の入国管理官はやはり、とてもいかつい。。。しかし彼はこちらを少し見ただけで、特に何を聞くこともなくドカンとスタンプを押してくれたので、ダンケ〜とだけ言ってそのまま奥に進む。
少し遅れて別のレーンで審査を受けていたT先輩がやってきた。
話によれば、
「めちゃめちゃいかついドイツ人にじっと凝視されて、Sightseeing?と聞かれ、うなずいたら、最後にはGood Luck!とか言われて強くスタンプ押された」
らしい。なんか土産話としても良い感じの体験をちゃっかりしていて。
お前はこれから危険地帯に行くんだぞみたいな脅しか。
まあ、ドイツ人からすればこれから東部戦線に行くようなもんだろ(前世の記憶)
入国管理官に質問されたことはこの段階ではまだ一度もなかったのでちょっと羨ましいなと思ったり。
そういうわけで空港で待機。現時刻はおそらく15時くらいだったかな。そしたらもう搭乗時刻。
もはや今回の旅で散々使い慣れたルフトハンザ航空の三列シートの真ん中に座りました。廊下側が確かT先輩。窓際には黒人のお姉さんがいたけど手に持っていたパスポートの表紙を見る限りウクライナのパスポートなんで、多分ウクライナ国籍なんでしょう。
機内アナウンスでは盛んにウクライナ語とドイツ語が流れてきますが、正直ウクライナ語は1mmだけかじったので1mmだけ理解できました。
ブドゥラースカ(英語でいうところのPlease)という単語が言葉の節々についているのは聞き取れましたがそれ以外は当然さっぱり。あとはジャークユ(ありがとう)と、ジェーンドーヴリ(こんちわ〜)くらいかな。
でも実際ロシア語にはかなり近いし一緒の単語も多い。日本語でいうところの青森弁と標準語くらいの違いといえばわかるかな?
(ロシア語は公用語としては使わないのなら、果たしてキエフ市民は日常会話でロシア語を使うのだろうか?といった疑問が湧きます)
というか今回ウクライナへ自分が行こうと思ったのも、大学のゼミの研究テーマである”ロシアとウクライナの関係”というものを実際に現地で体験したいと考えたのがきっかけですし、そりゃ言語なんて両国の関係性を図る大きな指標じゃないですか。こういったところはかなり意識して観察しておりましたよ。
でも付近にいる乗客の話す会話を聞く限り、普通にロシア語だってのが音で分かったので多分みんな日常会話はロシア語なんでしょう。
着きました。見るからにウクライナ語ですね〜海外で初めて見るアルファベット以外の文字。。。
今日もなにかと情報量が多くて疲れる1日になりそうです。
空港ではなぜかあまり写真を撮っていないので、これ以外写真がほとんどありませんが。
ロビーの椅子で一時間程度、ドイツに置いてきたS先輩の到着を待ちます。そんで、その間に容易にはつながらない空港WiFiと格闘します。繋がらないと連絡も取れないので死活問題。
どうにか繋がってひたすら待ちます。
その間やはりすることがないので、タクシー運転手の執拗な誘いを払い除けつつ空港の両替えセンターで手持ちのユーロ紙幣をウクライナの通貨であるグリブナに替える。
空港での両替はレートが悪いのであまりお勧めできませんが、この当時はレートだとかそんなものに一切関心がなかったので気にせず手持ちの紙幣全てグリブナにしてしまいました。
グリブナに変えたところで、さっそく空港のキオスクで買い物。
ジュースとお菓子を買う時にさぁ初ロシア語使うぞ〜〜〜〜と意気込んだのだが、ロシア語で数字なんて言うのか全然覚えてなかったので、店員が〜グリブナですって言ったのを聞き取れない。あ〜なんて惨めだ。
てか逆に俺の使えるロシア語って何だ???ってなりました。
そりゃそうだ。語彙力なさすぎる。
まぁこういう時は紙幣を店員に見せる。店員のお姉さんは普通に紙幣を選んでくれてそれで無事会計は終了。疲れるね。
それからようやくベルリンからの便が到着したとのことで、入国ゲートの前で彼女が出てくるのを待機。他にも同様に待機している人たちがいっぱいいて、中にはロマンチックに赤いバラの花束を後ろ手に持って彼女を待つ男性の姿もありました。海外の空港ならではだね。
ようやくS先輩のおでまし。
かなり時間がかかったようで、見れば外はだいぶ暗くなりかけていた。ちょっと前までは外が暗くなるのもだいぶ遅かったのに、今ぐらいになるともう日暮れが早くなってますね、まだ時間だって17時前後だというのに。
空港を脱出するためにはタクシーを使うか、バスを使うかがあります。
そりゃ当然タクシーよりバスの方が安いに決まってる。
でもバスの方が乗り場とかややこしいし。でも都合よくキエフ市内行きを示すバスを発見するので、我々はやはり入り口付近で客を捕まえようとするタクシー運転手を振り切り、バスに乗り込んでいきます。
でもチケットはどうするのだろう?それに関しては、運転手が後部座席から回って行き、乗客からお金を集めて回っていたのが見えたので一安心です。
そしてここでロシア語を齧ったつもりでいる自分の出番。
トゥリー、ビリェート、パジャールィスタ(チケット3枚ください!)
はい、これはちゃんと言えたよ、ロシア語でね。
ちゃんと3枚もらえたし。値段は一人大体60グリブナ。(240円くらい?)安い。こんな安いものなんか。値段はあらかじめ調べてたのでわざわざ聞くまでもない(どうせ聞いてもわからない笑)
「やるじゃん」すると後ろの席から先輩たちが珍しく褒めてくれました。なんか嬉しいね。
でもこの時くらいのもんだ。
そんでまぁあとは揺られるだけで、順調にキエフ中央駅まで走る。
大体一時間程度だろう。
駅に着く直前、前の座席に座っていたロシア人のお姉さんに、
「イズビニーチェ。エータ、ツェントルバクザール?(すみません、ここは中央駅ですか?)」って聞かれました。
とても簡単なロシア語だったので奇跡的に理解ができ、ダー、とだけ答える。
「スパシーバ」
そんだけの会話だったけど、初めてまともにロシア人と会話できたことが嬉しかったなと。
まあとっさのことで少し緊張したので、「どういたしまして=パジャールィスタ」が出てこなかったのがちょっと悔やまれるけど。
さて、ウクライナに着いたら外はさっきより断然暗い。
しかもどことなく治安悪そうな雰囲気が漂っていて。。
着いたら飯を食いたい訳だが、どこで食おうか迷った挙句、駅前の煌々と光るケンタッキーの看板に昆虫のように吸い寄せられた我々は結局そこで食べることに。大荷物を抱えて店内になだれ込んできたアジア人3人、周囲からの視線がとても痛い。
明らかに浮いている。
カウンターのお姉さんに注文しようと思ってロシア語で話しかけようとするが、なんか言葉がうまく出ない。そうしているうちに向こうが英語を話してくれたので助かりました。若い人はさすがに喋れるらしい。本日得た学び。
日本で言うところの大きめのバケツサイズの骨付きチキンを抱えて店内の席で食べたのだが、疲れすぎていて味はよく覚えていない。
店内を出た後こっからどうやって予約していたホテルに向かおうか迷うものの物騒で歩くわけはないので適当にタクシーを捕まえる。
でもだいぶ適当に選んでしまったので、ぼったくりタクシーを引き当ててしまう。
英語通じねえし何言ってんのか分からんし。
いくらか訊こうとして紙に書いた数字の羅列見せたら悪気もなさそうに高めの数字選んで、こりゃまずいなと思った。2000円かあ。
日本よりは安いし別にいいんじゃないの?と思ったのだが、空港から駅までも240円程度だってのに、その距離の何分の一しかないことを考えると。
・・・まあ、高いか。
そのことを後部座席に控える両先輩方に伝えるとさっそく「高すぎ、値段交渉して」とまたしても不機嫌なS先輩にそう偉そうに言われてしまう。
うっす。そうっすよね。
高すぎる・・・ってロシア語でなんていうんだ???
知ってるはずなのになんかぱっと出てこなかった。言葉の壁に阻まれた上、自分自身初めての海外。正直かなりパニックだった。
「交渉できないのでまぁ、今日はこの値段で諦めましょうよ・・・?」と言うと、「交渉しろよ、なんでできないの?」などと彼女から不機嫌に背後から駄々をこねられる。
本来ならば言い返してぶん殴りたいところだが先輩なのでそれはできない。非常に悔しい思いをした。まあ恨むべきは自分のロシア語力のなさなのだが・・・。
「ねぇなんで交渉しないの????ぼったくりじゃん、最悪〜〜〜」とかいう文句を後ろから果てしなく垂れ流され続けること数十分。
S先輩の言葉に妙に傷つけられながらようやくホテルに到着した。
なんか倍疲れてしまった、、、。
タクシー運転手にとっても良いカモである。ほんと色々と最悪な旅だ。
そして、なんでこんなやばい女を連れてきてしまったのだろうか・・・??
タクシーを降りた途端いろいろロシア語で言ってきたが何のこっちゃわからんし、分かりたいとも思わん。
なんか、どうやら連絡先を教えようか?と言っているそう。つまりまたタクシーをここに呼べって訳である。
さすがにそこではニェート、と言って彼を突き帰したが。
・・・ずいぶん長くなってしまいましたがようやくホテル・ウクライナです。
ソビエト時代からある由緒正しき立派なホテル。
中央広場(マイダン)のど真ん前にある、ウクライナの顔と呼ぶべき立派なホテル。
受付のお姉さんがすごい美人で腰抜かします。
まぁこういうところでウクライナに来たなあ〜と感じる。
それで、こちらが客室になります。
うわぁ、こっちも綺麗だな。。。
てかベッド二人分あんじゃん。。
まあしかし残り数日あるしどう楽しむかも自分次第なので、いろいろ嫌なこともあったが、頑張って気持ちを切り替えようとした。
(Twitterで”ややホームシック気味。”と呟くと、ガルパン好きのフォロワーが”雪の進軍”のリンクを貼ってくれました。ロシアだからなのか?正確にはロシアでもないし冬でもないけど、なんか励まされる)
しかし我々は、まだ明日の夜に起きる、もっととんでもないトラブルによってもう一泊ここに過ごすことになるとはまだ予想もしてなかった・・・。
(続く)
欧州遠征録【9】ベルリン二日目。ドイツ最終回。
みなさんお久しぶりです。。。
また随分と更新が遅れてしまいましたが、いかがお過ごしでしょうか。
早くももう半年ですよ。
いい加減定期的な更新を心がけたいものです、、、難しいですけど。
これ以上の前置きは長くなるので省きまして、今回はベルリン観光二日目の日記ですね。
(2016年9月15日)
さて昨日ベルリンに着弾した我々ですが、ベルリンをさくっと観光して今日はまた本格的に観光を。
特に行きたいところがあるわけじゃないんですよね、ベルリンに関しては。。
→そもそも前回もお話ししたように、同行者にちょっと苦手な人が1人でもいたりすると好きなところに行くのも結構しんどいので
でも一応ドイツもこれで最終盤なんで、今日くらいちゃんとドイツらしいことしたいなって思うじゃないですか。
まあ毎日散々ドイツらしいことをしようと心がけてビールを浴びるように飲んできたけどさ
買いそびれてたお土産なんかもここでちゃんと買っておきたいし?
なんせ明日はドイツという安心安全のEUを離れて、英語通じるかも分からんウクライナとかいう未知の国に飛び込むんですから。
そうして、とりあえず先輩と話し合って以下のようなざっくりとした予定が組まれることになった。
当初の計画表に若干の修正が入るわけです。
【今日の予定】
午前
②森鴎外記念館
③バームクーヘンの美味しいお店
④美味いビールとドイツ料理
午後
① 俺→単独行動。(デパートとかケーテウォルファウトとか)
①’ 先輩二人→(バウハウスとか。後は知らん。)
②午後3時くらいにカイザーヴィルヘルム教会前で落ち合う。
てな感じに、ざっくりとした予定が組まれることになりました。
いやいや皆さん、今日の予定は素晴らしいと思いません??
なんせ単独行動の機会が回ってきたというわけですよ。自由に行きたいところに行ける。
今思えば何で自分はもっと早い段階で単独行動の機会を設けなかったのかと不思議でならないのですけどね。
当時は初海外というのもあって単独行動はなるべく控えようというのがあったからだとは思います。
それに同行者がいた方が英語できない自分には心強いというのもあったが。
しかし、これによってようやくあの煩わしいS先輩から離れられるってわけです。
もちろん一時的ではあるけど。
そういうわけで我々は一路、ベルリン市内にあるという森鴎外の記念館を目指して歩き始めることになった。
1日しか歩いてないのにすっかり見慣れたベルリンの街並み。しばらく歩いて昨日も行ったポツダム広場にまでやってくると、そこにはベルリンの壁を削り取ったものがモニュメントらしく置かれていました。
お、こんなところでベルリンの壁の一部分見れるんだ〜と展示に見入ってたら、その壁の表面にはられた不気味な集合体にびっくり。
近くで見ると全部ガムなんですよ。。。
噛んだ後のガムを貼り付けて模様を描いてるんです。
馬鹿じゃねえのか?って思うけど、まあこれもまた芸術なんでしょうね。我々にはどうも現代ドイツ人の芸術センスというのが理解できません。ヒトラーがモダニズムを退廃芸術と罵った気持ちがなんとなく理解できます。意味がわからん。
芸術センス抜群のフランス人は今でもよくドイツ人に芋でも食ってろと罵るそうだし。
それともこんなクソみたいな壁作りやがったソ連どもに対する復讐の意味もこもってるんでしょうかね。確かに。それなら納得ができる。旧東側では今でも残されたレーニン像を叩き壊したり、蛍光色カラーに塗りたくったり、しょんべん小僧に作り変えたりする馬鹿な悪戯が流行ってるそうで。興味があったら調べてくださいな。
ろくろ首レーニン像はかなり面白かったよ笑
広場を後にしてさらに歩くと、途中に不気味な石の集合体があることを確認。興味本位で近づいてみると、これが何かの慰霊碑であることに気づく。沖縄の摩文仁の丘みたいな感じかな。
よく見れば、ユダヤ人の慰霊碑でした。第二次大戦中、ユダヤ人が殺戮されてしまったのは誰もが知ることですが、その慰霊碑が街中にひっそりと佇んでるもんなんですね。いまいち何を意味しているのかよく分からなかったけど。
てか、結構でかいですね、こんなデカかったんだな。今これ書きながら写真を見てビビってる。あんまし記憶ないんですよね、、
とにかく、ドイツ人の背負った贖罪の重いと言うものが痛いほど伝わってくるような構造物の塊でした。本当にベルリンっていう町は戦争から切り離せんよなあ。
少し寄り道はしたが、そこからさらに歩くと、今度はおそらくベルリンのみならずドイツを代表する立派な建造物が見えてくる。
そう、これがブランデンブルク門だ。
いつ作られたんだっけなこれ。ナポレオンの時代くらいからあるっぽいけど。
門の上には女神の像がある。実際これはナポレオンに奪われたことがあるらしい。
のちに普仏戦争で取り返したとか何とか。本当なんでしょうかね。
その後ドイツは第一次第二次と凄まじい戦争に敗れ、二回目の大戦ではご存知の通り美しい街だったベルリンはソ連軍の攻撃で廃墟と化しました。
そして東西分割。
悲惨な歴史を歩んできたもので、戦争でもかなり被害を受けたと思うんだけど、その痕跡は見当たらない。調べてみると1956年くらいに東ドイツが修復したんだとか。ドイツ人にとっては大切なモノなんでしょうね。ベルリンの壁の起点になったのもこの門ですし。
朝早かったこともあってか、ご覧の通り。超有名観光スポットだけど観光客もまばらです。
写真は取り放題ですわ。
あんまし自分の写真は撮ってもらってないけどね。
さてお次は、すぐそばにあるドイツ国会議事堂。
これまた歴史ある建物で、第二次大戦ではソ連軍がめちゃくちゃ雪崩れ込み、屋根に登って赤旗を立てた場所でもある。
これがほんの70年前ってのがなんとも実感が湧かないよね。
東西ドイツが統一して以降やっとそれまで廃墟だったのが修復が進み、ドイツ国会議事堂として正式に稼働したということらしいです。
(西ドイツの首都はそれまでボンだった上に、ここは東ベルリンでなく西ベルリンの管轄区域だったので東ドイツが首都機能を置くこともできなかったため、長年野晒しにされてきた。)
こちらは国会議事堂を裏の川の対岸から眺めたもの。
なにやらデカいガラスのドームが見えますが、あれが古い建物に近代的な設計を盛り込んだものです。ドームの中は展望台になっているので観光客が押し寄せとるんだが、予約制なので予約してなかった自分たちは入れませんでしたとさ。
まあそういうこともある。
お次はウンテルデンリンデン、という通りを歩く。
聞き慣れない通りだなぁ
そういや「舞姫」って今教科書に載ってるんだっけ??自分の高校か中学の教科書には載ってたけど、授業じゃやんなかったなあ。
今いるベルリンって町は、森鴎外の小説「舞姫」の舞台になった街としても有名。なんでここに来た以上鴎外記念館には行く必要がありまして。。。全然読んだことないけど。。。
ほらね、遠目にデカデカと鴎外と書いてるもんだからすぐわかりましたよ。ちゃんと漢字だし。
ここが森鴎外の下宿していたアパートらしいです。まあ当然本物は1945年のベルリン市街戦で叩き壊されたけど、ちゃんと復元してくれたそうでね。
早速中へと押し入っていきます。
古い階段がお目見え。
登った後の中はまあ、至って普通の博物館といった感じ。ちなみに館長さんは日本人の奥様でした。なんか日本人がそこにいるだけで旅の安心度って格段に上がるよね。
ドイツには結構な確率で日本人がいるので、多分住むのも問題ないと思われます。
中の写真は残念ながらありませんが。
森鴎外記念館の感想としては。。。
まあ。。。森鴎外、すごいなあ。と思ったのと(ほんまかいな)
日本に帰ったらちゃんと森鴎外を読もうなあ、と思いましたね
(ちなみに5年を経た現在、まだ一切読んでいない。。。)
そんなこんなで森鴎外記念館を後にし、川沿いをぶらぶら歩いて美味しいバームクーヘン屋を探すことに。
Sさんがなんかガイドブックに載ってるところでいきたいところがある〜とかなんとか言ったので、電車で向かうことになった。
ちょいと小洒落たフランス語風の駅から電車に乗って少し移動。
ここら辺の移動は先輩任せだったので正直自分がどこへ向かっているのか全く覚えていません。。。
行ってみるとなんか小洒落たパン屋といった感じのところでした。
自分はその時別に腹が減ってたわけでもバームクーヘンを食べたいという気持ちもほとんどなかったので買うこともなかったんですが、少しだけ頂きまして。
美味しいなあと思いました。
本当に感想がしょうもなくてすんません。。。この頃になるともう何を食べてもあまり驚かなくなってきて、新鮮味が薄れてきたってことなんでしょうけども。ホームシックってわけじゃないんだけどね。やはり旅は10日目くらいまでが一番楽しいんだけどそれを超えると少しずつ虚無になってきちゃうんですわ。仕方ない。
そこから美味しいドイツ料理を探し求めてレストランへと向かいましたとさ。
途中、カントの名を冠したカフェが目に飛び込んできたので、哲学科のT先輩がちょっとはしゃいでました。
まあ近づいてはみたけど全然カントには関係なかった。。。残念。
ツィレマルクト、、、読み方はこれであっているのかどうか知らないが、かなり小洒落たレストランだ。やはりこういったテラス席で食うドイツ料理ほどいいものはないよね。
とりあえず、というわけで当たり前のように500mlのビールを頼む。
これで大体300円くらいだ。なんて安いんだろう。。。ずっとドイツに住みたい。。。
クっっっっソ美味美味いもんは美味い。
美味すぎる。
ドイツビールは最高だ。人間の叡智だよね。
これに敵う飲み物があってたまるか。
なんかバームクーヘンの時の反応とは180度違うな。
だってビールはなんせ毎日飲んでも飽きることはないしな。
料理の写真はありませんが、おそらくドレスデンのビアガルテンでも頼んだグーラシュとかいうビーフシチューを頼んだ気がします。美味しかった。そんでビールをもう一杯。
つまり昼間っから1リットルもビール飲んでんだよね。
おかしいよな。日本じゃ絶対ないわこんなの。軽く酔っちまったよ。
昼間からフラフラ酔っ払いながらベルリンを徘徊することになります。
午後なので、こっから先は単独行動のお時間です。
ようやく自由を謳歌できるとばかりに二人を置いて自分は我先にと町の中へ飛び出していきましたよ。
先輩たちはバウハウスとかいうモダニズムアートの展示美術館に行くらしいが、自分はとりあえずクリスマスグッズを扱うお店「ケーテ・ウォルファウト」に入りました。
このお店では年中クリスマスグッズを扱っているとのことで、実に品揃えが豊か。海外のクリスマス文化って日本では真似できないほど豪華で派手で楽しいからいいよね。
結構お値段もするし、これといって欲しいものがあるわけでもなかったから特に何も買わなかったけど。
まあ、いかんせん酔っ払ってるし、なんかビール飲み過ぎで尿意はすごいしであんまし記憶にないんですよねここ。
慌ただしく店を出ると今度は尿意に耐えながら街を歩く。
その姿は紛れもなく不審者だ。
デパートの前までたどり着いたんだが、最近テロを警戒してデパートでも警備は厳重。しっかりと出入り口で荷物の検査とかがあったりする。まあしかしベルリンの場合はパリほど厳重ではないものの、ダークスーツにサングラスのいかつい警備員は立っており、自分がデパートの前で挙動不審に立ってるから、何か御用でも?って聞かれてしまう。
いやここ、トイレあるんかなと気になったが。
そりゃあるか。
とりあえず、トイレはどこにありますか?と酔った頭でやや混乱気味に聞いてしまう。
確かロシア語が少し混じった気がする。トイレって英語では何て言うのが正解なんやろって思ったんですよね。ロシア語だとトゥワリェット、なんですけども。
トイレットでええんか普通に?いいか…まあ普通にロシア語っぽい発音でも通じたし別にそんなことはどうでもいいのだ。
「ここの3階にありますよ」とその人はとても親切に教えてくれた。うわー大変申し訳ねえ、と思いつつ、エスカレーターで慌ただしく3階の奥の突き当たりへ行き何とか難を逃れる。どこにでもトイレがないしあったとしても有料であることが多いヨーロッパなのでさっきの黒服さんには感謝しかない。
なにかちゃんとここで買い物して行こうと思いました。最上階のお土産売り場とかでチョコレートとか買ったと思うんだよなあ、はっきり覚えてないけど。
そんなこんなでデパートを後にして、その頃には流石に酔いも覚めていたので、薬局でやばそうなエナジードリンクを買うなどしながら、カイザーヴィルヘルム教会のそばの広場で先輩二人を待つ。ベンチに座ってると、物乞いのジプシーかどっかのおばあさんが金を恵んでくれと近づいてくるのだが、それをせっせと追い払う。
やはり追い払うのは心が折れるな。。しかし一人に何かをやると他も寄ってくるしなあ、、難しい問題だ。
これがカイザーヴィルヘルム教会なんだけど。。。
なんか、教会っていうには、ボロボロじゃねえ?って思いますよね。
てか尖塔が吹っ飛んでる。
これは戦争で吹っ飛ばされたままの状態で今も教会として使用しているからだそうです。
カイザー(皇帝)ヴィルヘルムとは第一次大戦の時のドイツ皇帝の名前で、この教会もその皇帝に因んで建てられたもの。ドイツは戦争に負けて皇帝は国外に亡命し、その後ヒトラーによって第二次世界大戦が始まるが、今度はその戦争で屋根やらあちこちを吹っ飛ばされたわけでして。
ほんと町中至る所に戦争の痕跡があるね。
そんなこと考えているうちに先輩たち二人がバウハウスから帰還して合流。
バウハウスの感想を聞くと、すげえ面白がっていたけど、二人とも明らかに近代芸術を馬鹿にする風な口調だったので、なんとなくどんな展示物があったのだか想像がついた。多分おれも似たような感想を抱いたことだろう。椅子をただ置いただけの空間を彼らは芸術と呼ぶのだからやっぱり分からない。
我々凡人に近代芸術は早すぎるというわけだ。
そしてこれからカイザーヴィルヘルム教会の内部へ。
結構すごいところでしたね。戦争遺跡もちゃんと現代の教会として活用しているところがさすがだなあというか。
もっと奥に行くと、外観とは不釣り合いな現代風の礼拝堂が広がっており、多くの人が祈っていました。まあちょっと現代チックすぎて、観光客にはつまらないかもしれないけど。
こうして教会も後にして我々は一路電車でホテルまで戻ることに。
ドイツの地下鉄って入り口でチケットかざしたりしないんですよね、、、出口でも同様に。
でも電車の車内で突然抜き打ち検査みたくチケットの確認に車掌が回ってきたりするんで、当然ながら無賃乗車は許されません。
とても疲れたが、今日は何となく充実していた気がする。同行者のSさんにムカつくこともほぼなかったし。
比較的彼女の機嫌がよくて助かった。(なんで四六時中機嫌を伺わなくちゃいけないのか分からんが)
さていよいよ明日は朝からベルリンを離れてウクライナのキエフに飛行機で飛ぶのだが…。
ウクライナ、いったいどんな国なんだろう。
期待と不安が混ざり合いながらのドイツ最終日でした。
(次、ウクライナ編に続く。)
欧州遠征録【8】いざベルリンへ。
このシリーズ最後に一体いつ更新したのかすらはっきりしてないけど。去年??うそだ^^まじで^^去年!^^去年^????><
いかん、まずい、さすがにそろそろ更新しないとなあ、自分の記憶も永遠じゃないのですし。
久しぶりに旅行記書いちゃおうか。というか下書き欄にずっとこうして書きかけが放置されてたのでいい加減に書き終えることにします。
実は旅行記って面白おかしく書くのが苦手なのもので、自分でも何書いてんだかよう分かんなくなって中途半端で飽きてしまう。人生でかなり影響受けた旅行記がさすっごく読み応えあって面白いなぁって思うから余計にこう妥協を許さないと言いますか、そういう感じになっちゃうんですねぇ。でも頑張ってこのシリーズは終わらせたい。
実際今年の2月〜3月にはまたしてもヨーロッパ(東欧)をぐるぐる回る旅をしていたので、こっちを書き終わらなきゃそっちを書くこともできやしない。
うぉお。しかもなんだこれ、どんどん過去形になる。
2016年なんてもう4年前??
記憶がそろそろだいぶやばいし曖昧すぎる。三日前の出来事だってあやふやなのに4年前の出来事なんてはっきり記憶しているのか??自分も不安がりながら続きを書いてます。
というわけで、ノンフィクションというわけにもいかないのでところどころ嘘とホントを織り交ぜ脚色した感じで書いていきたいなというお気持ちですが。
みなさん覚えていればで結構なんだけど、 我々が前回訪れた都市はドレスデンでしたが、それでは今回その続きから。
◇
ドレスデンも最終日の朝を迎えましたね〜〜はやいもんです。
この日も素敵な朝食を食べたと思うんですがあまり食べた記憶がないなあ。写真残ってないから食べたのかもしれないし、食べてないのかもしれない。どっちだっていいか。最初は目新しかった朝食も日を追うごとにさほど目新しくも珍しくも何とも思わなくなっちゃうんですよね。仕方ないけど。
あと、この頃から当時の日記が飛び飛びになってしまってるのか、いろいろと情報が抜け落ちてしまっているのもあります。飽きってのは怖いね。
体感としては大体10日ほどで旅行にも飽きが来てしまいます。。。贅沢だ。
さていよいよお楽しみ、憧れのベルリンへと発つことに。
さらばドレスデン。たしかホテルからは、またまた歩いて駅に向かった気がするな。
そうそう、こういう感じで、ツヴィンガー宮殿の外堀をぼんやり眺めたりしながら優雅に朝の散歩ですよ。ドレスデン市民がうらやましいよ
トラムがあるので乗車して市の中心部に。
本当にベルリンへと行くことができるのか疑問が残るところ。
我々はもうね、ここまでくると慣れが出てきたから、切符の予約とかそういうのを事前に逐一決めて行動するのが億劫になっちゃって、もはや駅で当日にチケット買うのが当たり前になってしまっているところがあったが、
おかげで毎回不安を払拭できない。とてもスリル満点の旅。
でもまあ便利な券売機で買うからそんなにスリリングでもないけどね。ドイツ鉄道(DB)の赤い自動券売機は英語や中国語など様々な言語が充実してるんだ。日本語はないけど。
みなさん覚えているかどうかわからないが、ドレスデンに来る時だって危うくドルステンとかいうオランダとかベルギー国境沿いの町に危うく飛ばされかけたわけですしね。。。(※欧州遠征録【6】を参照)あれは、なぜだか券売機の操作をミスり、ドレスデンが見つからなかったんだけど駅員さんに聞いたら余計に分からなくなってしまったパターン。
なんやかんや券売機の方が人間の手を介すよりも確実だったりするよね。人を介してだと発音の聞き取りミスとかが起きかねないし。
ドレスデンには2つほど大きな駅があるのだが、乗ってたトラムがもう一方の駅に向かっていることをGoogleマップの位置情報で目にした俺は、何をとち狂ったのか、同行者T氏の言い分に歯向かってトラムを途中で降りることを強要してしまう。
「ベルリン行き、こっちの駅じゃね?」
ここで俺の勘違いしていた駅はフリードリヒシュタット駅のことなんだと思うが、当然我々が向かうべき駅はドレスデン中央駅。
いや、中央駅はこっちだと言うT氏の言い分に対して、いやいやこっちに決まっているとなぜか自信満々な上に頑固な俺は、このフリードリヒシュタット駅の方を中央駅だと言い張ってしまい、、、
結局自分の言い分が通ることになって、我々はトラムを途中で降りることにした。
とぼとぼ歩いてそのもう一方の駅に向かうことになるが。愚かであった。
そして、なんじゃここ、、、たどり着いた先はフェンスに囲われた駅の真裏。
しかもえらく閑散とした物寂しい駅。おかしいね、到着した時には見えなかった景色が広がってやがる。
この時点で自分たちは誤りに気づき、慌てて元来た道を引き返す。背中には重々しい荷物を背負っているのだが。。。
みなさんも旅ではちゃんと相方の意見もしっかり聞くように。こうなりますので。
さて結局トラムを途中で降りたばかりか無駄に歩いて無駄に引き返し、そして残りの中央駅までの道のりを徒歩で向かうことになってしまった我々一行。
結局朝早くに出て10時ごろにベルリンへ到着予定だったにもかかわらず、到着は12時になってしまうというアクシデント。
それでもかまわんと、ベルリン行きの電車のチケットを購入。
いや〜〜しかしどえらい目にはあったが(おまえのせい)今回も次の街へと向かうチケット難なく買うことができたと安堵して高速列車のシートに腰を落ち着けるものの、まだ神はお許しにならず。
「そこの席、いいです?」
ドイツ人のお客さんに声をかけられ、自分たちの座っているシートが指定席であることに気づかされる。
こりゃ申し訳ないことをしたと思い、改めて自分のチケットを見返すのだが…自分たちのチケットのどこにも座席番号など書かれていなかった。
一体どこに座ればいいんだろう。
今思うと、探せばどこかにきっと自由席専用車両もどこかにあったんだろうと思うのだが、列車も発車してなんとなく身動きが取りづらくなった我々はもうどうにもできなくなって(荷物もクソ重いし)車両の隅にあった補助シートに腰を落ち着けることにした。
けどそりゃそうなんだが、どことなく周囲からの視線が気になってしまう。
本当にここに座っていて大丈夫なのだろうか。
しかし駅員が通り過ぎても何も言われないし、それどころかチケットの確認をされても我々がここに座っていることに対してノータッチ。
変な気分が2時間弱続きましたとさ。
そして、、、
ベルリン中央駅につきました。
俺がバカやらかしたせいでだいぶ時間を食ってしまった。
さて、今日からスタートするベルリン観光ですが、実は
ここから旅の同行者が一人増えることになります。
同行者のT先輩にはその当時付き合っていた彼女がいたんですが、
まあそんな情報は本来どうだっていいのだが、実はその相手が今アイルランドに留学しており、ベルリンで合流しようという約束になっていた。
ただの赤の他人だったらまだ良かったかもしれない。
しかし自分にとっても、その彼女とやらは我々と同じ演劇サークルの一個上の先輩なので、そう無碍にはできないという事情があった。
出発前、一緒にヨーロッパ観光しようね!笑みたいなこと言われて、
俺も乗り気ではないのだが、何となくはい、楽しみです!笑などと、極めて当たり障りのない返信をしたわけですよ。先輩だしさ。失礼のないよう普通に接しないとね。(こういう女ってLINEだと優しく見える。実際にはただの怪物なのにな笑)
だってその時までは多少はムカつくけどそこまで嫌いじゃない先輩だったしさあ。。。
そん時まではね。
でも結局、この日からひどい目に遭いましたね。
やはり普段サークルで接しているような感覚で一緒に観光してはいけない。一緒に旅行することの恐ろしさを舐めてはいけない。本当にひどい。
ムカつきが段違いである。
人格者で思いやりがあって優しいT先輩とは違い、非常にわがままで自己中心的で、ことあるごとにすぐ不機嫌になるような感じ。
てかT氏も一体なんでこんなヤバイのと付き合ってんの?(真顔)
脅されたりでもしたんじゃねえの?
兎にも角にも、つまらん時は迷わずつまらんとか飽きたとか、あれこれわがまま言い出して場の雰囲気ぶち壊しにしないでほしいね。黙ってその場にいておくれ〜〜〜赤ちゃんじゃないんだし。。。
ウクライナの教会の外観可愛い〜〜〜!!とか叫んでおいて、いざ中に入って、物々しい内装とか正教会の礼拝を聴いた途端、つまらん早く出たい〜〜〜!!!とか機嫌悪くして駄々こね出すんですわ。。。出たけりゃ自分だけ出ればいいじゃねえか、こっちを巻き込むな。バカ〜〜恥を知れ〜〜!
これでも一応先輩なんだけど、こうなってくると微塵も尊敬の念など湧かないのですわ。
会話の中で自分の思い通り事が運ばなかったり批判されたりすると相手に向かってすぐうざいと繰り返してきて、自分のつまらなさを棚に上げて相手に面白さを要求してくる典型的な他人任せ他力本願のクズだし(特に演劇界隈に多い。自己顕示欲の強いだけで思いやりも常識も謙虚さのかけらもなく、責任取らんが態度はでかい口だけの馬鹿が集まりがち。そのくせ妙にメンヘラなのが多いし。前頭葉狂ってんじゃないの?まったく、、、)
そんな人と合流してしまったことによって旅は非常に深刻なものとなっていくような。
そもそもこの人とは全く仲良くないしな…
苦手だったんだけど旅を通じて少しでも仲良くなれるかも???などと、どこかで期待した自分が愚かだったかもしんない。
今あの人はどうしてるんでしょうかね〜まぁそんなのもどうだっていいんだけど
まーーーあれですね、本人のいないところでいろいろあれこれ悪口を言うのもアレだ、なんなら4年前の話なのでとっくに時効も切れている、今更蒸し返して責めるのは罪刑法定主義に反すると言いますかね。ともかく陰湿だし心苦しいのでこの辺でブレーキを掛ける。
「遅い」
さて、こんなわがままモンスターな先輩を”S”さんと呼ぶことにしましょうか。一応最低限の敬意は払います。怪物とか思ってても言いません。(言ったらさらに面倒なので)
Sさんと駅で合流するのにはかなり手間取りました。ベルリン駅も結構大きいからね。あっち行ったりこっち行ったりしてようやく見つけ出す。助かったわ。
まずは、1時間の遅刻を詫びます。
誰のせいかって、これは紛れもなく俺のせい。さっそくSさんからねちねち言われました。まぁ、これには返す言葉もございませんね。。。
で、後ろを歩く俺の存在など無視して、自分の大好きな、彼氏先輩とべったり仲良く談笑しながら歩いてるんですわ。ほんと。あからさますぎて怖い。確かに4、5年前の自分が今と比べてクソつまらん人間だったことは否定はしないけど。人と会話するのもそんなに得意じゃなかったし。
嫌な感じだが、こうした複雑極まりない状況でもなんとか楽しいベルリンを楽しいものにすべく、我々は駅の観光案内所に行ってバスや鉄道の1日乗車券を手に入れました。
これさえあればどんな交通手段もチケット一つで歩き回れる。とても便利だね。
ということでまずはベルリンで宿泊予定のビジネスホテルを目指しました。
ここまでくるともうこれまでに泊まった宿とは打って変わって大変シンプルな、日本にもよくある内装になってきたので(お値段重視)特にこの時の写真はありません。
部屋に荷物を預けて集合し、さっそくベルリン市内の観光へとシフトしました。
ちなみに自分だけ一人部屋で先輩たちは相部屋。
そりゃそうだ。それがいい。厄介払いもできる。
扱いに不満は残るが。
まずは、ベルリンに来たからには絶対に外せない場所というわけでベルリンの壁を目指すことにした。
だがここらへんの記憶があまりなく、ベルリンの壁のあるポツダム広場まで歩いて行ったのか電車で行ったのかかなり曖昧なのだ。多分歩いたと思うんだよねぇ。
ポツダム広場は第二次世界大戦より前にはヨーロッパの経済拠点として栄えた。ニューヨークのタイムズスクエアみたいな感じか。ナイトクラブやバーが立ち並び、ナチス時代にも軍の高官たちが闊歩したことだろう。
第二次世界大戦で帝国の首都ベルリンは連合軍の熾烈な爆撃や砲撃を喰らい、一帯は廃墟と化した。まるで無傷だったパリとはとても対照的。
おまけに戦後は占領者のソ連とアメリカに分断され、ベルリンの壁が建設され、悲劇はまだまだ続くのである。そうして、今度は人材流出を遅れた東ドイツがこのポツダム広場を起点として巨大で生々しいコンクリートの壁が築き上げたのだった。
1989年のベルリンの壁崩壊によって大勢の人々がここに殺到する。壁はハンマーで砕かれ、ロープで引き倒され、人々は歓喜に包まれて再会を祝福するのだった。
その際に多くの壁が引きずり倒され、破壊されたのだが、今でも一部の壁は当時のまま残されている。
歩いてるとこんなどでかいのに遭遇してテンションが上がるよね。確かにこの生々しさはただの壁ではない。落書きにもいろんな特徴があって、西ドイツ人たちが東ドイツへの悪口を目一杯書き込んでいる。芸術的なものも多いし。
Sさんも初めて見るベルリンの壁にテンションを上げていた。歴史には一切興味のない彼女は”ただ有名なもの”という認識しかなさそうだったけども。
まぁ、別に旅の楽しみ方なんか人それぞれでいいと思います。
純粋に風景を楽しんでいる人に向かって、この建物は〜〜…とか細かく歴史を解説するような鬱陶しい人間にはなりたくないもんですし
ただ、その土地の風習や宗教観、文化をないがしろにしたり、あるいは悲しい出来事や重い歴史の刻まれた場所を軽い気持ちで訪れたりSNS映えの目的だけで撮影したりするのは人としてどうかな〜とは思います。
そのためにも歴史のお勉強は最低限必要。
旅行の計画を建てる段階で、そういうことは是非とも、軽くでいいのである程度は勉強しておいて欲しいもんです。みんながみんな常識や良識があれば日本人に対する印象も必ず変わってくるもんですし、アジア人への差別や偏見も減らすことができるし。
タイで仏教の説法垂れ流すラジオがうるさいって言って、オランダ人か誰かがコンセント引っこ抜いただけで懲役何年とかですからね???
日本の常識なんて海外では通用しません。
さて、この写真は、そんな壁の裏側ですが、実はこんな風にちょっと展示っぽくなってるところがあったりします。
ベルリンの壁って、単に薄っぺらいコンクリートの壁というわけでもなく、結構間も広いんですよ?
壁を超えた先にも有刺鉄線やバリケード、銃を持った兵士、番犬、溝、監視塔、もうなんでもアリです。サーチライトで照らされたら終わりだし。。。
こんなところ越えられないね。最初からこうだったわけでもないけども。最初のペラい壁ひとつじゃさすがに沢山の亡命者が出てしまい、対処に悩まされちゃったためさらに増築した、という形です。
まあこんなことやったって地下にトンネル掘ったり小川を越えたりして東から西へと亡命した人は数知れませんが。
それでも壁を越えるしかなかった人はもれなく撃ち殺されている。
亡命行為はベルリン市内に限ったことじゃないので、東ドイツから西ドイツへと逃れるだけでも全体で約1000人以上が犠牲になったとかなんとか。
亡命を阻止した監視兵には勲章メダルまで与えられましたし。
銃殺された亡命者は共同墓地に埋葬されました。墓標も建てられることはなかったそうです。だってまぁ、、、共産主義の裏切り者ですから。丁寧に埋葬してもなぁって感じだったんでしょう。中国の天安門事件も似たような感じ。
また、結構前からだけどこういったベルリンの壁の砕かれたコンクリート片は売店で売られてたりします。欲しいような欲しくないような…
さすがにベルリンの壁にも満足して、我々はそのままの足で再びポツダム広場の方へ。
少し行くとチェックポイントチャーリーが見えてきました。
A(アルファ)、B(ブラボー)、C(チャーリー)、D(デルタ)などとアルファベットを呼ぶのを聞いたことがあるだろうか。
あれはもともとNATO(北大西洋条約機構)で規定されたフォネティックコードと呼ばれるものである。同盟国の軍隊同士でこのようにアルファベットを発音するという決まり事があり、それは現在でもあらゆる方面で使用されている。
普通の呼称だと無線で聞き取りづらいからとか、いろいろと理由はあるようだけど。
もちろん自衛隊でも使われている。また一般の無線通信の際にもこのような呼称が用いられ、その場合それぞれ一文字ずつに単体で意味が用意されている。
さて話を戻すが、つまりこのチェックポイントチャーリーのチャーリーというのは当然人名やあだ名というわけではなく、”C番目の検問所”という程度の意味合いに過ぎない。
冷戦時代、ここを境にして米ソが睨み合ったのだ。ベルリンは東西冷戦の最前線であり、本気で双方とも向こうが攻め込んでくると疑心暗鬼になっていたようで。今の韓国と北朝鮮の間のDEZ(非武装地帯)みたいなもんですね。非武装と言いつつ地雷があったりしますが笑
そういうわけで、もし西ベルリンに、あるいは東ベルリンに用事でもあるなら、こういった検問所を通れっていうわけである。
当然ながら亡命目的での出国は許されない。
まあ西から東へ亡命するような人間がいたかどうかは知らないが、東ベルリンから西ベルリンへの渡航が許された人間なんてごく一部。かなり厳しい審査を経て、秘密警察シュタージの監視を受けながら出国した人物だ。
西ベルリンから東ベルリンには観光客も多く訪れていた。
そういった人物への検閲はそう大して厳しいものでもなかったらしい。貴重な外貨を落として行ってくれる存在だしね。うちの母親も80年代に東ドイツ・東ベルリンへと足を運んだことがあるそうだが、西ドイツとの経済格差を目の当たりにして衝撃を受けたとか。
チケットの紙の質ひとつで経済状況が分かってしまうんだから、これほど悲しいこともないだろう。人民が亡命を決め込むのも当然のことだった。
まぁそれでも東ドイツは共産主義圏の中では一定の経済成功を収めていたんだけども。。。
その事実だけでも共産圏の失敗を物語っていると言えるじゃないですか。
ちなみに、このチェックポイントチャーリーでは写真も撮ることができる。写真をよく見れば旗持ったおっさんが立ってるだろ?
彼らに金を掴ませると写真が撮れるってわけだ。
いい商売だよな。まぁ、、まんまと乗せられるようにして撮ったけど。
Sさんが男二人並んだ写真撮ってくれた。正確にいうと4人だが。
こうして振り返るとなんか楽しい思い出ですね。
まあ、けっこう強気の価格設定で躊躇はしたけど、これはなんとか撮って正解でした。
チェックポイントチャーリーのそばには博物館なんかもあったけど、多分のんびりしている暇もないので、ここらで飯にでもします。
近くをうろついていると、公園のような場所でいい感じのソーセージなんかを焼く屋台とかが集まったエリアがあったので、一休み。
ベルリンと言ったらカリーブルストを食べないことには始まらん、というわけでさっそくいただきました。カリーブルスト。
でも注文する時、ヴェスト(西)・オスト(東)ブルストみたいに、なんか分かれてる感じでした。どう違うのかわからんかったし、写真に写ってるこれは一体どっちだったのか。
未だ謎ですが。東だったような記憶がうっすらと。
まあどっちにしたって美味いもんは美味いんですわ。
そんでもって、ビールによく合います。
小腹も満たしたので、街の散策が続きます。
ベルリンの街並みも案外綺麗なもんだ。
ソ連軍の地獄のような砲撃でめちゃくちゃにされたというところで記憶が止まってるので、よくもまあそれから見事な復興を遂げたもんだなという感じ。東京もそうだけどね。
とはいえ戦前の趣あったベルリンの方が好きなんだけどなあ。。。あの戦争さえなければ、ベルリンもパリとはまた一味違った感じの、ドレスデンのような古風な街並みだったんだろうなあと思うと非常に勿体なくて仕方がない。近代化の弊害とも言える。
少し歩いて、教会の前まで来ました。
めちゃくちゃでかい教会。
この時、完全に先輩たちのあゆみに連れ回されるばかりとなっていた自分は、もうどこを観光したいかという意欲も失っていたので正直なところ、訪れた当時はこの建物がなんであるかすら理解していませんでした、お恥ずかしながら。
今こうして調べてみると、これが1905年に時の皇帝ヴィルヘルム2世によって建てられた教会だということを知ります。 第二次大戦で巨大なドームは被害を受け、近年修復を終えたとか。
内部のドームの装飾は大変美しいそうだけど、なぜかこの時我々は内部に入ろうとすらしなかったような気がする…多分入ってないはず。
入れば良かったなぁ。
あと、この教会の真隣に巨大なサムスン電機の近未来的な巨大建築物がそびえ立っており、我々は見事な景観破壊だなと言って笑い合った。
サムスンはやべえよ、いろんな意味で。とても日本企業には真似できない自己主張の強さ。建築物より目立つどでかい看板で、ヨーロッパじゃどこ行っても夜中でもギラギラネオンが光ってるからな。やべえよ。
後述するが恐怖のキエフ市内の深夜でもギンギラギンに光るサムスンの看板だけが道標となり、我々に対して妙な安心感を与えてくれた。
さて、教会の奥の方に、あんなに高く聳え立ってる高いタワーが見えてきました。
ベルリンのテレビタワーというらしいが、あそこに登ればベルリン市内を一望できるというので早速目指すことにします。
だいぶ近くまで来ましたね。
てか、ここまで来たらもう自分たちの宿泊するホテルにも多分だいぶ近い。
結構前からあるタワーらしいけど、あのタワーが立ってるのって旧東ドイツ??西ドイツ??
旅行中今いるのはどっちなんだろうな〜〜〜とか、そんなこと考えながら歩いてたけど、方向音痴なのでどっちが西か東かもよく分からんままフラフラ歩いてましたね。
勿体なかったな。もっとよく考えて歩けば良かったよ。
ちなみにこのベルリンタワーは60年代に開業した東ドイツの建物です。
共産主義建築だったのか〜〜〜〜と後になって知ったので後悔した。それを考慮してもっとじっくり見とけば良かったなあ。
東京タワーよりも高い約360mのテレビ塔。てかこんな高い建物建てちゃったら、東ドイツ市民が西ベルリンの豊かな暮らしぶりを空から眺めることがちゃってまずいんじゃないの????って思いましたけどね。夜景とか明らかに違うでしょう。どうなんだろうか。。。
それとも展望台が開放されたのはもっと後になってからなのかね??
エレベーターで一気に上昇。
これはすごい。正直エッフェル塔にも登らず、日本でもあべのハルカスくらいしか登ったことがなかったので、この高さまで上がるのは初めてかもしれん。
でも展望台が200mってことはハルカスの300mには負けてるのか。じゃあ初めてではないわ。すまん、、、
しかし窓ガラスが汚いのなんの。
ドイツって綺麗なイメージあるじゃないですか、でも電車の窓とかも振り返ってみればすごく汚かったんですよね。
でも、でもさあ展望台の窓くらいは綺麗にしてあると思うじゃないですか。それが、汚いんですよね。本当に薄汚れてて下の景色が曇っててよく見えん、、、ドイツ人は結構適当な民族だ。まぁお客様ファースト精神の日本人がおかしいってことでもありますが、、、
地平線が見えるのも日本とは違うなってところですね。
さあ十分に景色を堪能したのでエレベーターで急降下ですよ。
展望台へ登る大きなエレベーターには他のお客さんも乗り込んでて、ガイドさんがついてて、英語でちょっとしたトークをしてくださるんだけど、一緒に乗ってたお客さんの中にアフガニスタンの人たちもいました。移民かな。
こちらに対しても、出身はどこと聞かれたので日本と答える。
「このタワーより高い建物を知ってるかい?」みたいなこと聞かれたんだが、不意打ちだったんで正直なんて言ったのか分からずにYesって適当に答えたら、「どこ?」って聞かれて、答えに迷ってしまう。
それからまもなく向こうから「ああ、スカイツリーか!」と言われて、うなずきました。助かりました。適当に返事をするもんじゃありません。
適当すぎる。。。。
そこでエレベーターがちょうど一階に着いたので、持ってたチケットを再びかざして出ます。
出る時、Sさんだけチェックに引っかかって、いつまでも出てこれない感じになってました。面白くて、出入り口からT先輩と一緒に遠目から眺めていました。
警備員に助けられてようやく塔を脱出。
まあまあ、あの人と一緒にしては、予想よりそこまでひどくない1日だったなと思いつつ、帰りは小さなパン屋みたいな商店とかに立ち寄りながらホテルに帰ります。
さて、1日の終わりなんですが、ここからまた問題が発生。3人で一緒にホテルの部屋でさっき買ってきた飯など食ってたら、いきなりSさんが「パスポートがない!財布がない!」とか喚きやがるんですよ。何事か。さっきのスーパーに忘れてきたのか????って感じになって、大慌てでホテルを飛び出して、さっき立ち寄った小さな商店に舞い戻るんですが、19時くらいなのでとっくにシャッターは降りていて、完全に無駄足を踏むことに。
こうなるとこの人はまじで面倒くさいんですよ、機嫌悪くなってずっとぶつくさ愚痴とか垂れ流すもんだから、二人の男はこの人の機嫌を伺うだけ。
ま、、、まじでめんどくせぇなこいつ、、、、泣
一緒に旅行もしてなかったらこんなやつとっくにシュプレー川にでも突き落としてるわ。
「もうホテルにあるんじゃない??」とかT先輩が言うので、いったんホテルに戻って荷物の中身を再確認するSさん。
するとリュックの中の別の袋に入れていたことが判明し、我々は安堵します。
「あったー!!!!」と、そっから妙に機嫌良くなる。
周囲を振り回すだけ散々振り回しといて全く謝罪もなく、こちらとしてはイライラゲージが溜まるだけですよこんなの。
しかしこんなもんはまだまだ序の口であり、今後ますますこの人によって振り回されながらの旅が続くのでした。
(次に続く)
国家総合職試験のイレギュラーな回顧録その2
前回の回顧録のつづき。
③教養試験も忘れずに。
国家公務員に限らず全ての公務員試験において忘れてはならないことがあります。
前回も説明した専門試験の勉強もそうだけど、教養試験の勉強もね。
これもまた全40問解答で高校レベルのような問題、というのはまあ前回も説明した通り。
すなわち企業のSPIに高校科目を追加した感じである。
ちなみに足切り点は専門試験同様12点なので、教養が12点以下だと、専門試験がたとえ満点だったとしても自動的に落とされてしまう仕組み。
とはいえ専門試験の方が配点が高いので、まぁ教養が15、6点とかでも専門で25点以上とかとっとけばまずボーダーには届きますけどね。
だから勉強の労力としてはそこまで苦ではない。
しかしこれは国家総合職の教養試験である。
難易度は通常の教養試験とはさすがになんか、微妙に違っている。。。これはどの試験でも大体共通しているのだが以下の科目をこなす必要がある。(出題数は適当)
文章理解 6問
英語 6
数的推理 5
判断推理 4
空間把握 4
資料解釈 2
思想・哲学 1
世界史 1
日本史 1
地理 1
経済 1
政治 1
数学 1
物理 1
生物 1
化学 1
時事 3
なんか他にもあったかもしれん(おまけに科目数とかも正確じゃないかも)。
でも基本これである。
よく分かるよね、いかに知識系科目の出題数が少ないかということが。
ってことはつまり、このような問題数の少ない知識系の科目は遠慮なく捨てていいってことになるわけです。
だから基本的には企業のSPI試験対策でも事足りるんかもな、とは思う。
ある意味厄介なのが英語。他の教養試験に比べても難易度が比較的高くて、しかも出題が多い。まあまあ長文だし。これと、それに加えて他の科目も含めて3時間で解く必要があるのはなかなかこたえますね。疲労感が半端じゃない。
めちゃくちゃ時間も取られるしね。
あと判断推理は何度も練習して本番じゃ素早く解くのがコツである。
判断推理ってのは与えられた少ない情報でどの選択肢が正しいかを答える問題。
ほらたとえば
AはCより先にゴールして、BはDより遅くて、DはAより早い、じゃあ一位は誰〜????(他にもヒントはあるけどね)
みたいな問題が判断推理。
これはわりと数学が嫌いでも問題なく解ける。
自分みたいに高校時代センター試験の数学2Bが2点だったようなポンコツ落ちこぼれでも解けるような問題。ま、本番では壊滅状態でしたが。笑えるよな。
なんも笑えねえんだよな。
あんだけ時間も割いてまで一生懸命問題集を繰り返し解いて練習したのに?なんで一問程度しか正解してないのかい????
自己採点しながらものすごく腹が立ってきましたね、自分に。
そのくらい国家総合職になってくると数的推理系の難易度はやや上がると思った方がいいと思う。
たかが教養と侮ったらいけませんでほんと。そりゃまあ半分以上東大生が受けるような試験だし多少難しくしないと釣り合い取れんしね。
でもまぁ、これは逆にですね、英語得意だって自信のあるお方は、ここらへんは無理に勉強せず捨てちゃってもいいってことでもある。自分は英語ができたので数的推理がズタズタボロボロでも切り抜けられましたし。
英語が難しいったって、別にリスニングがあるわけじゃないしね。文章読んで要約として正しい文を5つの選択肢から選ぶだけの簡単な…問題…だし。多分。センター試験英語めっちゃできる人は心配いらん。俺はセンターの英語の点数は90弱(リスニング含めず)のクソ雑魚だったけど、あの時よりかは、そりゃ〜〜〜、6、7年も経ってるんで英語力はだいぶ向上してますけどね。難なく。
高校の時は今ほど勉強してなかったし。
いや、でもこんなこと言ったら無責任って言われるからやめよう。ちゃんと数的推理には最後まで向き合いましょう。無理そうだったら英語に逃げましょう。それが賢い選択。
時事問題なんてのも、やはり公務員たるもの理解しておく重要な知識であることは疑いの余地もない。当然昨今の公務員試験においては時事問題はかなり重要視されています。
「速攻の時事」などといった教材をフル活用することで身につく。出る部分やキーワードをピンポイントで押さえているのでこれ一冊で済む。最高だ。でもこれ単体だと、正直読むところが地味に多くて、どこが出題されるのか分かったもんじゃない。
速攻の時事・問題集という別冊があるので、ぜひともそちらの購入をお勧めしたい。逆にこれだけあればなんとかなるレベルだ。
気の迷いで専門学校に半年だけ通っていた時期は新聞を毎日読めなど、どうこう、あれこれ言われたが、正直なところ新聞読むだけの勉強は効率が悪すぎてお勧めできない。今更そんなことしたって普段から文章読まない人間がどう変われるってんだ?という感じだし。もちろん短期間で変われるってなら応援するが。
出題される時事問題って去年や一昨年のことばっかだしね。
その証拠に新型コロナウイルスの話題なんか一つもなかったな。別の試験でウイルスと人類の歴史を問うような問題はあったかもしれないが。
④ようやく試験日程の確定。
さぁてですね〜〜
こっちは散々フェイントかまされてモチベなどを完全に削ぎ落とされてるため、今度また再延期でもしたら許さんぞという強い気持ちを滾らせておりましたが、
ようやく7月5日に1次試験があるという告知がなされました。やったね。
日程や目標が確定するとモチベでもなんでもやっと爆上がってくるような気がする。気のせいじゃなくて事実か。
それまで部屋の片隅の床の上に積まれて放り投げられ、筋トレの道具にすらなれなかった無駄に分厚く無駄に重い哀れな問題集は当初のように再び俺の手の中で可愛がられ、捲られ、擦り切れていきます。
最初は試験終わった後で売ること見越して蛍光ペン引くことすら躊躇ってたけど、もう蛍光ペンで書きまくりですわ。情け容赦もなく。
モチベがブチ上がると、とにかくあらゆる手段を尽くして試験に打ち勝とうとするのが俺という人間です。終わった後に売るというセコい考えは捨てましたよ。
受験する皆さんもそんな考えはさっさと捨てちゃってくださいよ。
最後のラストスパートでこれまでに解いた過去問を、そりゃもうひたすらやりましたね。流石に直前1週間前にもなると燃え尽きてあれだったけど。問題集の最初から最後まで、実戦形式で何問解けるかってやつ。どうせ本番でも専門試験は時間余るんだし時間は計らなかったけど、何度やった問題でも普通に間違えるのが総合職試験のクソムズなところ。
てかまあ、もうここまでくると最初はあんなに難しいと感じていた問題も訳なく潰せるようになってますね。
とにかく国家公務員の一次を突破したいんならあらゆる問題集・過去問を古本屋やらネットオークション、メルカリなどで入手し、解いて解いて解きまくること。これに尽きますね。。。
何度も同じ問題を解き続けていると、初めて見た問題でもこれ違うな〜〜っていう選択肢を第六感で感知できるような超能力が備わります。いやまじで。
(ほんとこの能力は身につくよ。過去問解き過ぎるとクソ長い5択を見た時、中身をよく読まんでも、この選択肢なんとなく違うな〜っていう感覚が研ぎ澄まされていく)
⑤試験当日、大雨。
ばーーーーーーかなんでこんなに降ってんだ
キレ散らかすほどこの試験の前後は九州全土を土砂降り大洪水が襲います。ま、世間様は一体、梅雨でございますからね。。。しかしまぁ、風情もクソもあったもんじゃなく。小生は誠にブチギレにございます。
それにもへこたれず、電車が止まっていてもどうにか前日入りを果たしてホテルに直行。うちの地元は竹が倒れて電車が止まるなんてことしょっちゅうあるからね。
問題の最終確認などをして明日に備える。
もちろん翌日も大雨である。
受験地である国立大学に傘さしながら入ろうとしたら、なんか知らないおじさんたちに声かけられちゃって、
「総合職受験者ですか???」
「はい〜」
気づくと言われるまま、なんかアンケートを書かされていた。
「去年も受験されたんですか?」
「(政治・国際は)去年も受験しましたね〜〜ダメでしたけど〜…まぁ今年はいけるんじゃないっすかね笑??」
そんなやりとりしてると、なにかがおかしい。
“二級建築士?”
あ、あ、もしかして、
建築士の専門学校の人…?
いや別に、誰にでも配ってんだし、
おかしくはない…か?
とか思いながら大学の敷地内に足を踏み入れようとした。
「受験会場はまっすぐ行って、右ですよ」
「あ、ありがとうございます!」
「がんばってください!!」
すごく総出でお見送りされてにこやかな気持ちになった。
応援されたし。嬉しいねえ。頑張っちゃうぞ〜〜
でもその案内にしたがっていくと何かがおかしいんだよな。ここ。入り口付近で検温で熱測られ、測定済みとかいう青い札を渡されたが、そこには国家総合職・土木と書かれています。
おやおや。そこでようやく先ほど校門前で、建築士専門学校の先生方が立っている意味を理解しましたね。あの門はどうやら土木の試験会場となる学部キャンパスが近いらしい。
当然自分が行きたいのは政治国際区分の会場なので、今度はめげずに法学部の棟を探し彷徨い歩きます。
いやどこやねん。全然分からんわ。雨はわけわからんくらい激しいし。
ちなみに去年は教育学部の棟だったんだがそれすらも見つからん。雨の日は特別方向音痴が極まる。
何やかんや集合時間には無事間に合う形でたどり着いたんだけど、その時はカバンも濡れ足も濡れて、散々な目に遭っていた。
受験票も雨に濡れてめちゃくちゃだ。家庭用プリンタで刷った受験票はインクがすぐ滲むからやめた方がいいよほんとに。こういう時に最悪なんで。
てかなんで受験票の確認作業する受付が屋外やねん、濡れるやん。狭い屋根の軒下でやるなよ。
屋内が密になるのはわかるけどな…
大雨にコロナで、ほんとにマスクが蒸し暑苦しいし面倒だし、濡れるし、モチベは始まる前からいいものではない。さっきモンエナ買っててよかったよ。集合10分前とかだったので急いで喉に押し込むことにした。
さて会場にはいくつも座席が用意されているのだが、、、、
受験番号の貼られた机に人が全然いないではないか????
嘘、まじ?時計だって正確なのに?
周囲を見渡してみたら恐ろしいほど空き座席ばかり。どういうわけなのか。大雨で電車が止まっているのも一つの原因なのかもしれないな〜。60人分くらいの受験番号の貼られた教室に時間までに集まったのはわずかに8人程度。
ちなみに法律区分の一部と同部屋だったのだが、それでも政治国際が4、5人で、残りが法律という感じ。
少な過ぎやろ。びっくりしちゃう。
午前中に専門試験があり昼からは教養試験。
専門試験はだいぶできたと思って、昼の教養試験もまあまあ半分は取れたんじゃないかという気持ちになった。
それ以外の記憶があんまりないのでこれだけにしておくよ。とにかく自分の全てを出し切ることができたなって思えて大満足でした。
でもまあ半年間勉強嫌いの凡人が勉強続けて辛酸を舐めて、午前9時から午後17時までのすごくキツい試験を乗り越えてみるとすごく大きな達成感を得ることができたと思います。
受かったかどうかもまだ分からないのに勝ったなっていう確信じみた直感を得たし。
それだけ勝負事に本気で向き合ったのは人生で初めての事だったと思う。
中学時代にも吹奏楽部でコンクールに出たけど自分は他のメンバーに比べて一生懸命になれなくて、高校時代の演劇部だって自分は役者として一生懸命練習に励んで大会に臨んでいたとは言い難かった。
それこそ就活始めた時だって周りがコツコツ一生懸命就活してる中、自分はやりたいことや目標もはっきり定まらず、それをただ黙って眺めるだけだったし。
自分はほんとにちょっと前までとても愚かだった。
でも今回の試験で忍耐強さとか勉強の面白さを学んだり大きく成長できたなとは思います。
少なくとも子供みたいに夢みがちな甘えた精神は多少叩き直されたかも。
もちろんまだまだだけどね。中高時代、不真面目な俺を怒鳴ったり叱りつけて人知れず必死に“勝ち”に向かって絶えず努力を重ねていた、そんな同じ部の同級生の真面目な女子たちを今なら尊敬の眼差しで見ることができます。
昔はなんでそんな部活程度に必死になれんの?ってちょっと小馬鹿にしてたし疑問だったけどさ。
自分がそうやって努力もせず、だらしなくして甘えている時にこそ彼女たちは弱音を吐かず一生懸命練習に励んでいたんですからね。
今の自分より10歳も若くて、一番遊びたい時期なのにね〜
だから彼女たちが今どう生きてるか知りませんが、少なくとも自分よりずっと偉大なんですよ。
だからこの程度のことで努力したなーって思うのも非常に傲慢な気がします。彼女たちに申し訳ないのでもっと頑張ろうと思います。
もちろんこれからも。
えーと。
そんなドタバタな一次試験の合格発表は7/17でした。
受験番号を最初間違えていて、自分の番号がないことに焦り、かなりテンパってパソコンをそっと閉じようとしたが、改めて人事院のサイトから自分の受験番号を引っ張り出してくる。番号を間違えて覚えていたので。
すると。
…
あった
…
…なんか、すごく嬉しかったな。
あくまで一次に合格しただけだけど。
さっそく官庁訪問の申し込みをすることになっていきます。
(続く…????)
国家総合職試験のイレギュラーな回顧録
趣向を変えて特殊な就活体験記でも書こうと思います。なんとなく。
回顧録みたいなもんですよ。公務員試験の体験記なんかネットの巷に溢れてるんだが今年はとにかくイレギュラーだったので、どこかに記録として残しておくのも悪くないと思ったので。
2年間も受験したので公務員試験に関しては一般受験者より多くの知識が蓄えられたのではないかな。無駄に多くも。
でもまぁ俺もいつまでこんなこと続けてたんだか。ほんとだな。
気づけば来年入省なので、自分が大学4年の時1年生だった後輩と同期になるってわけですな。まあ仕事に年齢なんて関係ないから別に構わんのだけど、でもやっぱ大学時代に一生懸命やってた人と比べたら今まで何してたんだ?って感じする。
職歴もないし。
一個下の国交省にいる大学時代の後輩はめちゃくちゃ優しいので「年齢とか関係ないっすよ!」とか言って先輩扱いしてくれるんだけどね。嬉しいね。嗚呼、そんな彼ももうすぐ社会人3年目ですよ。置いてかれた気持ちになっちゃうのがなんとも
さて公務員試験制度に明るくない人たちのためまず区分なんかを説明します。
◆地方初・中級 市町村の役所
◆地方上級 政令指定都市、県庁、都庁など
◆東京特別区 都内23区それぞれの区役所
◆国家一般職 全国の省庁出先機関での勤務
◆国家総合職 霞ヶ関本庁で政策の立案。官僚。
(ただし、上記二つの国家の場合最終合格後に事前面談会&官庁訪問というおF◯CKな個別面接イベントがあり省庁に採用されるかどうかは別のお話。一般職なら99パーどっかには入れるが)
◆国税専門官 税を徴収する実働部隊
◆労働基準監督官 労働基準法を守らせる組織
◆裁判所一般 裁判の運営や事務。
◆裁判所総合 裁判制度の企画、事務処理とか
三権分立に基づいて、裁判所は公務員試験とは別に独自で運営しています。
ほかにマイナーなやつの例で、
◆法務省専門職 少年院とか施設での勤務
◆国会図書館 司書みたいなもん
◆航空管制官 管制塔で航空機を上手く捌く
などなど。
以下は教養試験のみであることが多いところ?
市役所
刑務官
都道府県警察
警視庁
皇宮警護官
大学法人
(ここら辺は体力と面接でゴリ押しできるかもしれない)
公務員試験って結局、筆記が難しいか or 面接が難しいかの違いが云々というだけで全体の難しさにそこまで相違ないような気もします。
どうにもならん時はどうにもならん面接より、勉強次第でライバルを蹴落とせる国家の方が報われやすいのでありがたいけど(人によりけりですがね)
しかしまぁ〜結局国家だって最終的には面接の良し悪しがものを言うわけでしてね…。
きつい勉強頑張っても報われないところがあるのはとても無慈悲でありますね。
でも実際ね、変な人がたくさん入ってきても困るし最近の面接重視な風潮はそれなりに理解できないこともないかと。
面接を重視しない会社ほど変な人いっぱいいるからさぁ〜〜これはほんとですよ。
自分が前に一週間で辞めた小さな会社も複雑な選考なんてなかったし、人事という概念すら存在しなかったけど、社員はみんな暗いし無口だし、研修なんて無に等しいし、社長のメールでの指示も抽象的で意味不明だし(これには社員も文句を言っていたが)
隣の教育係の先輩は東大生らしいのだが日本語が破綻してて何言ってんのか分からんし、社長本人に指示の件は具体的に何をどうすればいいのか分からんと聞いてもその日本語の破綻した先輩に聞けの一点張りだし、社長からの指示が分からんから仕方なくその先輩にこの指示の意味は何ですか?って聞いたら、やっぱり意味の分からん日本語が返ってくるし()後ろの根暗デブ女はなんで教わったことメモしてその通りにしないのか!って怒鳴りつけて舌打ちしてくるし、その舌打ちやめてくれないですか?って言ったら口論になったし、ムカついて辞表叩きつけて帰宅したし。
何ですかねこの勢いある展開。とてもスピード感がある。いや、ほんとに何から何まで何も分からん。。。ほんとにあの一週間はなんだったんだ??
何も分からん。
まぁそういうわけで人物重視の面接システムはこうした変な人間をはじくフィルターとしての役割を果たしています。自分が弾かれてきたのも納得。
まぁ会社をよく選ばずに入社した自分の甘さが全て悪いんですけどね。猛省してます。なのでここらへんの記述はあの時の自分への悪口でもありますよ笑
とはいえ大学卒業してから就活始めたせいで他の企業での面接が全然うまくいかず精神的にかなり追い込まれてた自分に内定出してくれた企業はあそこくらいだったし、選択肢もないから仕方なかったところは多々ある。
そもそも、大卒者がみんな足並み揃えて会社に入らなくちゃいけないなんていう新卒ルールもバカげてるとは思うんだけどね。やりたいことなんかコロコロ変わるんだし。時の運もあるし。
そもそも新卒で入ってすぐ辞める人より、出遅れても真剣にやりたいこと見つけて一生懸命頑張る人の方が立派じゃないですか。就活に出遅れた既卒者をあんまし差別しないでほしいっすよね。まぁ俺は一週間で辞めたので差別されて当然だが笑
”面接の結果は人格否定ではない”とか、そういう言葉も巷には溢れていますが、しかし面接受かりたかったら人格否定ってところは多かれ少なかれ受け入れるべきところ。たかだか20〜30分の面接で俺の何がわかるんだ!←そのお気持ち、すごくよくわかりますよ。今だって時々そう思いますからね。でも、そう思う前に、これは自分の性格を見直すきっかけと思うのはいかがでしょうか?
なんで自分の面接がダメダメだったかを素直に反省すれば、自分のダメなところが案外たくさん見えてくる。指摘を素直に受け止められる人は学力だって伸びます。そういうのを乗り越えたことで人間的に大きく成長することができたなと。実際それまでの自分は何に対しても反抗的だったしね。そういうのも見透かされてたんだろうなって思いますよ。
だから素直になることを心がけました。いろんな恨みもあるけど自分の性格を変えるきっかけを作ってくれた人事の方々には感謝してます。
まぁそれはともかくとして、新卒(主に文系)の就活ってのは、ともかく、こうやって人の正常な思考・判断力を喪失させるもんで恐ろしいものです。
長々と何の話だっけ、
まぁ…とにかく、面接って大事なのよ…
面接のせいで散々酷な目に遭ったけどさ、あれは自分の成長のためにも、入社してからの居心地の良さを確保するためにも必要悪だと思うんだ…(
今だからそう言えますね。
そういうわけで上記のように民間企業での失敗もあり途方に暮れていたところ、周りからも公務員を勧められ、自分で職種などを調べるうちにそれが自分のやりたかったことに見事にマッチしていくわけです(マッチするのが遅い)
大学時代から真剣に公務員試験の存在を認知してればなあ。
前から国際問題や治安維持なんかに関心を強く持っていたので国家公務員の仕事には強い興味があったんだけどねぇ。小学生の時にゃ杉原千畝の伝記読んで外交官に憧れ、卒業文集にも将来の夢で外交官とか書いてたし。
やがて中学に入ってから英語そんなにできねえって感じで完全に諦めてたけど。だから自分がそういう世界に行けるとは思えなかった。現実から遠い世界のように感じてたし。
たまたま本屋で問題集でも捲ってたら意外と自分にもやれそうだと思うようになり。それで挑戦を決意したのが昨年の2月のこと。もうそっから今までずっとがむしゃらに頑張ってきましたよ。
さて、公務員試験には専門試験というものがあります。
これが公務員試験を近寄りがたいものにしているといっても過言ではないだろう。
専門試験とは?主に大学で教わる科目を問う試験のこと。
経済学や法律学、行政学、政治学とか、そういう小難しい理論が五肢選択の問題形式で(まあつまりセンターの間違い探しマークみたいなもん)で出題される。
もちろん警察官や自衛官みたいに企業のSPI試験みたいな内容の教養試験だけで受けられる公務員試験もあるし、最近では優秀な人材を各方面から集めるため(実のところ企業から優秀な人材を横取りするため)に教養試験だけを課す自治体も全国的に増えている。市町村とかがそうだね。
しかし大卒程度、地方上級や国家と名のつく試験では基本、教養&専門の二本立てで受験しなければならない。それらを勝ち抜いた人にだけ初めて面接を受ける権利が与えられるのです。
さてそんな勉強方法だけども公務員試験の対策本なんてのはかなり充実してるのでどんな本屋でも絶対手に入るし、なんならブックオフとかで、誰かさんのおさがりが200〜300円でも手に入ったり。その過去問を繰り返し解くだけで十分かと。
ネットで受験したい公務員先を選び、受験に必要な科目を調べて教材を揃えるだけ。
自分の大学は経済学部だし法律の知識ゼロだったけど、これやるだけで法律関連は問題なし。
公務員試験の予備校に何十マンも払うのはちょっと馬鹿げてますしね。独学でも出来る人は十分にこなせるってわけです。(もちろん面接練習してくれたりとか情報が充実してるとか、そういうのありがたいけどさ)
一応これまでの話をまとめると、
・年齢・学歴関係ないとか言ってるくせに、空白期間が長いと面接はやっぱり渋い。
・難しい勉強が苦手でも比較的簡単な教養試験だけで受けられる試験は結構ある(市役所や公安職など)
・面接重視な風潮とはいえ国家公務員試験は筆記の点数でわりとゴリ押しできる。
・一人で勉強するのが好きな人は専門学校行くより独学がおすすめ。
さて今回の記事では、タイトルの通り数ある試験の中でも特にイレギュラーだった国家総合職試験の体験を申し上げていきたいと思っていたので、時系列に並べて説明していきたいなと思います。
国家総合職
いわゆる〇〇省〜▲▲庁とか、ああいうところへ幹部候補生として採用されるための面接資格を得る試験区分。つまり官僚になるための試験。かつては国家1種などと呼ばれていたが試験制度改革なんかにより2011年以降現在の名称に改められます。
東京の霞ヶ関本庁勤務になるためドラマにもよく登場し一般には華やかなイメージがある一方、”不夜城”とも呼ばれるほど深夜まで仕事が続き、非常に激務。政治家にこき使われることが多いので早期退職者が多いのも現実。給料安いし。人権無視は当たり前。
だからあえて国家一般職を志望する方も多い。
さて、そんなキツい現実に向かうことが分かっていながら勉強を頑張るマゾな諸氏が国家総合職に最終合格して希望する省庁に進んでいくには、以下のステップを踏む必要がある。
試験申し込み(3月末ごろ〜4月の頭)
↓
一次試験(例年通りだと4月末)
↓
二次試験(5月中旬ごろ)
↓
人事院最終面接(5月末から6月初旬??)
↓
最終合格発表(6月末)
という流れだ。これに打ち勝てばとりあえずは万事安泰のように思えるのだが、最終合格発表の当日から官庁訪問の予約が始まる。
だが正直言って、あんなに難しいくせにここまでの総合職試験なんかただの余興に過ぎない。
こっからが曲者だ。
官庁訪問とはそれぞれ希望する省庁に自ら足を運び、
1日目
受験者:採用してください!!!!
A省人事1:(熱意はあるけど…保留!)
午後
受験者:採用してください!!!
人事2:(まあ志望動機はよく書けてるが…保留!)
受験者:さいようして…
人事3:A省の、〜〜〜という政策で、この問題はどのように解決できるとおもいますか?
受験者:え、あ、その…わかんな…
人事3:おかえりくださいまし
2日目
受験者:採用してくださいっ!!!
B省人事1:(元気だけはある)
午後
受験者:さいようしてください!!
人事2:ダメです。(元気しかないので)
3日目
採用して: 受験者?
C省:???????
この一連の流れを何度も繰り返して受験者の精神がおかしくなるまで監禁と拷問と面接(尋問)を繰り返し、何時間も庁舎内に拘束した挙句、夜になって「今年度の採用見込みはありません」などと抜かして追放する非人道的な選考システム。
まぁ今年はそれをオンラインで実施したわけだが、束縛される苦しみと、いつ突き放されるのかという恐怖は現地にいようとオンラインだろうと同じことである。
何もない不気味な庁舎の待機部屋が、自宅のパソコンの前に変わっただけ。
結局は人事との相性が試されるマッチングゲーム(いや漫画でよくあるデスマッチだろこれ?)俺は“決闘者”もなけりゃデュエルも得意じゃないのですぐに脱落。文字通りのマインドクラッシュだ。霞ヶ関はあらゆる大人の陰謀に渦巻いていますネ。
1日目に回る省庁は第一希望のところにしろとかさぁ…そんなわけのわからんことぬかすから立ち回りの上手さを求められたり、巧みな情報戦を強いられたりします。
蓋を開けてみりゃあ知らない暗黙の試験ルールばかりで、さっそく自分の甘さを思い知らされました。
まぁ一旦官庁訪問のことはさておき、今回は一次試験に絞ってお話したいので、順を追って回想しますよ。
①受験申し込み
まず今年は、コロコロパニックのせいで申し込みの時点から大騒ぎ。
本来だったら4月上旬に申し込み→一次試験は4月末の予定だった。
ところがその予定は、非常事態宣言によって大きく狂わせられてしまう。
当方九州に住んでいるのだが、あえて受験地は東京都にしていた。1次の実施日程が近い東京特別区などと一緒に受験できると考えたためだ。
地方在住者はこういったことも考慮しながら行動する必要があって大変だ。そのため、ついでに受けられるならそうした方がいいと考えた。まぁそりゃ何度も関東へ行ったり来たりだとそりゃ感染のリスクも上がるし絶対そうしたほうがいいしなぁ。
ところがその非常事態宣言のせいで特別区の日程が延期となり、そもそも東京へ足を運ぶメリットが完全に消え失せた。もはや感染可能性というデメリットしか残されていない。
すぐさま国家総合職の一次試験地を変更する必要が生じた。
ちなみに国家試験を主宰する組織には人事院という組織があるのだが、この組織がまた融通が効かない…ああいや、ここでまたいろいろ文句書くとあれなので抑えるけど、
「明日非常事態宣言が発令されたら、東京行くのも厳しくなりますけど…受験地を九州の某県に変更できないですかね^〜〜」
と電話で訴えるが
「受験地の変更はできません。」の一点張り。
なんだと〜〜〜〜
東京行って感染しろとでも言うのか〜〜〜〜?
地方に戻った瞬間、県内感染第一号者とマスコミと近所のおばさまどもに罵られムッソリーニみたいに吊し上げられ石投げつけられ市中引き回しの刑に処されるんだぞ??と内心思ってたのでかなり焦る。(感染爆発の初期段階だったので自分の被害妄想も大概だったが)
「『災害など”やむを得ない事情の場合”は、変更できる』と書いてますけど?」
しかしいくら言えども、
「それは、やむを得ない事情とは言えません。」
災害でなけりゃなんというのかい?
まあその人もどうせ上の命令に従うしかないだろう、無理は言えないのでここらで切るよ。
前のパンデミックは100年前だったし前例はないもんな
で、 仕方なくもう一度、さっきは人事院本部に凸ったが、今度は直接の試験管轄地域である関東事務局へ掛け合ってみることに。もはや完全なるクレーマーだし、こんなことするのも嫌だったのだが、母親に、引き返すな!言え!とケツを叩かれたからには言わないわけにはいかなくなってきた。まじかよ。でも馬なのでムチでケツ叩かれると、動いちゃうよね。
しかしまぁたとえ別の部署でも回答は同じ。そりゃそうでしょうな。
4月末…結局東京行くしかないのか…と諦めた時案外その人もなかなか悪い人で、
「…お勧めはできませんが、まだ受験申し込み期間内なので、別のIDを登録して二重に申し込んでみたらどうでしょうか」
“重複して同一人物が申し込むことは禁止。”
と注意書には当たり前のように書かれているのだが、どうやらこれをすることで後から申し込んだ方のが有効になるということらしい。
人事院の職員からのお墨付きもいただいたわけだし躊躇も遠慮もする必要はない。早速ですが一次試験の場所を地元に設定して申し込みました。
申し込み期日が終わった直後ちょうど非常事態宣言が発表され、国家総合職試験を延期するという発表もなされた。
4月末だったのが、5月末に延期される。そのあとしばらくして人事院から電話がかかった。
「これは同一人物ですか?」という感じの内容。
「間違えて二重に申し込んじゃいまして〜」なんて抜かして同じ人事院の方に悪知恵仕込まれたことは伏せながら答えると後に申し込んだ地元の受験地に無事変更してくれました。
いやあ〜助かるね〜飛行機なんか乗りたくないし意味もなくリスク犯して東京になんか行きたくないんだわ。そう言うわけで無事に申し込みは完了しました(なんでこれが第一の関門になるんかね)
②度重なる日程の延期
試験が一旦は伸びたおかげで一生懸命勉強に専念できました。これは有り難みの極み。そんでもうそっからは毎日参考書と睨み合う日々ですが、ここで簡単に国家総合職の試験区分を紹介しておきますと、大卒程度には
・政治・国際区分
・法律区分
・経済区分
などがあります。メジャーなのはこの3つです。
あと他に薬学とか土木、農業があるけど、理系の方は受験者がそこまで多くないんだよね。そりゃそうだろう。誰が優秀な頭脳をこんな安い給料の仕事なんかn…いや、なんでもないけど理系なら給料のいい会社なんかいっぱいありますし???
倍率もそこまで高くないので合格しやすいというメリットはある。これはマジ(まあどんな勉強すりゃいいんか想像もつかないが)
自分は昨年に引き続き、政治国際区分を選択したのだが、噂に聞けば一番この区分が難易度が高いとかなんとか。まぁそりゃそうだろう。
特に国際関係という学問に関しては公務員試験予備校でもあまり授業が組まれないほど正しい勉強方法が確立されていない。受けたきゃ自分の力で勉強しやがれ、ってやつ。実際過去問や教材も少なすぎるし。
そのためか、この区分が本格的に改正されて受験区分に組み込まれた2014年には、受験倍率およそ19倍という狂った数字を叩き出していた。難しさのあまり受験者が減り続け、今じゃあせいぜい9倍程度となっている。
うーん??でも正直高いのか微妙だ。難易度は高いのかもしれんが逆に法律区分より志望者が少ないのでライバルは減ると言いますか。
とにかく倍率下がったためかボーダーも下がり続けて、昔に比べればはるかに受験しやすい試験になったことは間違いない。
それでも半分近く点数は取れないと話にならないがね。
ちなみに、この政治国際区分で選択する科目は以下の通り。
政治学 10問(必須回答)
国際関係学 10問(必須回答)
憲法 5問(必須回答)
計25問。
残り15問を以下の科目から好きに選択回答(1つの科目の中から1問だけ解いてもよし)
行政法 5問
行政学 5問
国際法 5問
民法 3問
(他に以下の科目からも問題を選択できる)
経済学
労働法
ちなみに自分は経済学部だったが経済学と数字が死ぬほど嫌いなので経済学は選択しません。
ある意味で好きな科目だけで挑戦できるのは、国家一般職よりもありがたい試験であります。流石に10問も解かせるわけだから、政治学と国際関係の難しさはなかなかのもの。
新スーパー過去問とかいう実務教育出版が出してる有名な過去問集「政治学」「国際関係」をひたすら読み込み、ある程度マスターしてから、さあ本番といったところ。それ以降はもっとたくさんの問題を解くためLECというところのクイックマスターとか、ああいう問題集を解いたり。。。
国家一般職とか県庁レベルのならブックオフでも十分に手に入るんですが、国家総合職を受験したい方はそれ専門のクソデカ過去問集を買うことをお勧めします。
青い表紙のやつ。(どこらへんの層に一体需要あるんですかねここらへんの記事は?)
まぁ、とにかくひたすら以下のような問題を解く日々ですよ。
きれいにノート取る必要はないと思いますよ。分からんことがあったらその過去問のページに付箋を貼りまくり、角の余白にメモを取るなど汚しまくった方が覚えるしね。
そして間違ったところをもう一度解き直すことで知識は確実に定着していきます。
そうして5月の中旬いよいよ試験か、と思いきや…
『国家総合職の1次試験を再延期します。
現状いつになるかはまだ未定です。』
人事院より。
とても困惑したし、何よりここでモチベの維持が困難になってきた。
延期ならともかく未定???いつ???どうするのよ???
毎日テキストと睨めあってきた日々、ようやくこの苦しみから解放されるのかと思ったのに、これなんだもの。
少しずつ自分のやる気が削がれていくような気がする。振り返ると、この時期はもう勉強も少しずつ放棄したりと非常に怠惰になりかけてたと思う。
さて、とても長いので、今回はいったんこの辺にしておきます。
(2に続きます)
宗教家気取り。
この歳にもなってくると(24)世の中の仕組みとか哲学的なことなどを無性に考えるようになってくる。(普通ならないだろ)
結局のところ最近仕事が決まったはいいが特にこれと言ってすることも特になく、こういう世の中のことを考える時間だけが無限にあったりする。
一応足繁くジムに通ってひたすら身体を鍛え読書をし、茶を飲みながらこのようにブログなどを書く。…こういうのも悪く無い生活ではあるけれど多少刺激が欲しくはなるよね。
とりあえずは人に会いたい。人と会話するのが好きなので。田舎なので誰にも会えないけど。
今回の話もまた仕事を真面目に頑張っている人たちには何かと無縁な話だと思うので、こいつ、またこんな下らん根拠のないことダラダラと抜かしよるな、とせめて精神異常者を病棟のガラス窓の向こう側から眺める傍観者の気持ちで読んでいただけると幸いです。
所詮その程度のもんなので。あまり価値はない。
そうですね、今流行りのコロナウイルスだってね地球人口を減らすための地球による自浄作用のメカニズムなんじゃないかって自分は考えています。
今日のはそんな話。
ほら、人間だって病気になれば熱とか出ますよね?
人口が増えすぎた結果地球温暖化が生じたって考えたことありませんか?
そして我々が病気になった時に出る熱は何のために出るかって言うと、体内の病原菌を殺すためにある。すなわち病原菌=増えすぎた人間を殺すため温暖化が起き、それに伴って自然災害が多発するんだと、自分は思ってる。
海水面の温度が高いと台風やゲリラ豪雨が大量発生しますからね。
だから人が減らない限り災害も減らないし、毎年のように気温は上がり続けてるんじゃないかって。
何が言いたいかって、
世の中は全てバランス=均衡によって成り立っているってことです。
体内の白血球が急激に増加すれば白血病になるのと同じで、バランスが崩れればなんでもダメになってしまう。
地球は、とにかくその生態系のバランスを懸命に保とうとしていると思うんですよ。人が増え過ぎれば食糧危機に陥ったり大規模大量破壊殺戮の戦争が引き起こされたり、そして文明が発展するにつれて養育費が高騰し若い人たちが子供を産み育てたくなくなったり、とか全部そう。
こういうのは地球という偉大なるコンピュータに人の数をちょうどいい感じに調整するため、あらかじめプログラムされていることだって思うんです。
コロナが蔓延する中で老人を守り若者を自殺に追い込むような風潮もまた、『命はいかなる場合でも絶対的に尊い』という身動きの取れない倫理観が人類に強く植え付けられているからで、そうなるとますます少子高齢化という破滅の道は加速していき、地球の狙い通りになっていく。
そんな倫理観がどうして今の時代に浸透したかって、、そりゃ、先の大規模な戦争で何千万という人が死に、人間が命の尊さを強く意識し、反省したから。
人類は同じ過ちは二度と繰り返さないと固く決意をして、あらゆる話し合いや衝突を経て、黒人やLGBT、障害を持った人たちなどの少数者に優しい、一見すると素晴らしい社会を築き上げてきたわけです。
しかし賢くなってそんな尊い倫理観を得たはいいが、今度はそれが足かせとなって互いに憎しみ、苦しみ合っている。なんだか皮肉なことです。
そして貧しい人や寿命を迎える人全員を救うことなんか絶対に無理なのに、人道主義を掲げる理想主義者はこういう倫理観をいかなる場合でも主張し、無茶を言い足を引っ張り、世の中全てを破滅に導こうとしてしまっている。
世の中が平和になりすぎると「人類はなんでも克服できる」と、当たり前に思い込む傲慢な人たちがたくさん出てきて、結局こういう人口調整をしたがってる地球の思い通りになっていく。
限りある命に感謝して、1日1日を精一杯に生きて、何かで死ぬ時は潔く死ぬ。これが古来より自然を崇拝してきた人類の考え方だと思うんだけどなぁ。
産業革命以降、人間はどうしてもそんな風に傲慢になってしまったと思う。
加えて、理想主義者は今の核兵器による平和の均衡だって、こんなどうしようもない人類を辛うじてつなぎ止めてるありがたい存在なのに、それを否定して世界大戦を引き起こすきっかけも作ろうとしている。それなりに国防や外交に理解のある人だったら、昨今話題の核兵器禁止条約には、まだ日本は参加すべきでないと考えるでしょう。
そもそも核兵器をこの世から一つ残らず取り除くことなんてできるわけないし、一体それを誰が確認するっていうんですかね。
仮にロシアや中国が条約に参加してもまだ隠れて数発残してるとアメリカは永遠に疑うでしょうし、逆もまた然り。条約の有用性には疑問を感じてしまうな。
世界中から核を減らす取り組み自体は、もちろん極めて重要だ。
核兵器が”理性のある大国”の手の中にある場合には、互いに破滅を恐れ、核戦争の起こるリスクは低くなり十分に核の抑止力となるけど、
しかし一方でイスラエルやインド、パキスタン、そして北朝鮮といった、いわゆるあまり”理性のない小国”が核兵器を持つことで現在世界は核の脅威にさらされている。
常に臨戦体制にあるこれらの国がある以上、一見万能のように思える抑止力理論が通用しないのではないか?と考えるのは至極当然のことです。
だから、そういう国々が核を手放すためには、先に核を保有する大国がお手本となって核兵器禁止条約に署名する必要があるのかも知れないよね。
しかし、それでもやはりこの世から完全に核を無くすことはできないし、大国が核を無くしたところで危険な小国が隠れて核兵器をさらに製造し、大国を脅かすかも知れない。
そのような疑念があるから、大国も核を手放すわけにはいかない事情がある。
さて、このようなややこしい問題はゲーム理論の一つ「囚人のジレンマ」で分かりやすく説明することができる。
◆別々の部屋に収監されている二人の囚人ABのそれぞれに対し、刑事が以下のような交渉を持ちかけたとする。
①「Aが自白してBが黙秘すれば、Aは懲役1年・Bは懲役10年」
②「Aが黙秘してBが自白すれば、Aは懲役10年・Bは懲役1年」
③「双方が自白すれば、A・Bともに懲役6年」
④「双方が黙秘すれば、無罪」
さて、読者の皆さんも是非考えて欲しいのだけど、このような状況に陥った場合、二人の囚人はどのような選択をするだろうか?自白するのか、それとも黙秘するのか?
このような場合、お互いが黙秘した方が一番得であるように思えるが、実際には双方ともに”自白”を選ぶ場合がほとんどだ。
なぜならお互い別々の独房に隔離されているため、相手の心のうちを読むことはできない。自分だけが黙秘した場合の損が大きいから。
そして最終的に選ばれた互いにとって最も得になるような状況はナッシュ均衡と呼ばれる。
経済学でもよく取り上げられるテーマだが、これは国際関係学でも応用できる理論。
つまり外交関係において、これが「軍拡と軍縮」を説明する上で特に欠かすことのできない理論となるのだ。
さて、敵対する二つの国同士、核兵器を持つ・持たないではどちらの方が得だろうか?
当然核兵器を持つ方が得に決まっている。
だから双方ともに「軍拡」を選ぶのが、この場合のナッシュ均衡である。核兵器の数が多いほどに相手国を威嚇し、交渉材料を多く持つことができる。
互いに「軍縮」を選ぶことは、滅多なことではあり得ない。自分が軍縮をしたって相手が約束通り核廃棄を実行してくれるとは思えないのだから。「軍縮」はお互いが平和になるという意味で、本当だったら究極の理想なんだけどね。。。
日本政府が条約に加盟しないことを批判する人がいるが、そう人たちには原爆投下がもたらした悲劇にばかりに目が行き過ぎて、戦争そのものによっていかに多くの人が死んでしまうのかという重要な視点が抜け落ちてる。
日本政府が先立って署名するよりも、まずは米中露等の大国が先に署名すべきなのは明白だ。しかしそれが先ほども述べたゲーム理論でも説明できるように難しいのが事実。
アメリカの核の傘から日本が離脱すれば、中国の前で裸同然になることは避けられない。
そうなったらさらに多くの日本人の命が北朝鮮・ロシア・中国の脅威に晒されてしまうしね。
感情的な人々はつい物事を主観的に捉えてしまうけど、どのような物事にもメリットとデメリットが存在していて、これが絶対に正しいという選択肢はない。
理想主義者はつい完璧な正解を求め、絶対にこれが正しいと信じ込んでしまうところがありますが、どのような問題だってあらゆる観点から考察し総合的に判断しなければならないんです。
人間という生き物だけが地球上で一番正しいというのも我々の共通解ですが、そもそも究極的・客観的立場から言えば、人間は地球上で他の生物と同様一定数を超えて存在しちゃいけない。地球は人間だけのものじゃないんですし。
原子爆弾というおぞましい爆弾の発明だって偶然ではなく、増えていく人口を減らしたい地球によって当然のように予め用意されていた一手だったと思う。
”人類が殺戮戦争で行き着くところまで行き着いたら、極め付けには互いを大量に殺し合える核爆弾を製造するように”プログラムしているんですよ。
地球との戦いは、ある意味チェスをやってるようなもんです。一手、また一手と賢い地球は何手も人類の先を読んで、それで人類が大きな打撃を受けたら、人類も失敗を反省して地球に反撃をする。その繰り返しだ。
しかしそれでも人間は、そのような自然の摂理に抗い続けて偉大なる地球に挑み続けてきた。
『バベルの塔』という有名な旧約聖書の話が描かれたのは何千年も前の話なのに、人間はいまだにその教訓を受け入れることができない。
大戦後、国際連合を立ち上げた戦勝国は食糧危機に陥った発展途上国に懸命な人道支援を続け、国際的な枠組みによって世界中の人々が医療・文化・あらゆる点で協力し合い、一定の成功を納めてきた。天然痘の撲滅なんてまさにWHOなどの国際機関が主体となり、東西の垣根を超えて世界中の人類が協力してもたらした偉業だった。
そして人類は、核の脅威を終わらせるために東西冷戦を終結させた。それからの数年間はアメリカが主導となって、世界が一つに団結できた素晴らしい時代だったように思う。その間、食べ物は豊富になって世界経済は絶頂になり、人口は爆発的に増加した。
地球に一矢報いることができたと人類は喜んだでしょう。
このような全人類同士の取り組みは素晴らしいことではあると思います。先進国に住む自分もその恩恵を大きく受けているんだし。
その取り組みを否定するわけではないが、しかし地球の人口調整機能を無視し続けて豊かさを追求し続けた結果が温暖化と多発する自然災害をもたらしたというのは頭の片隅に置いておく必要があります。
でも今更、こんなにも便利な文明を後退させたいなんて誰も思ってないでしょう?
飛行機に乗りたい、車に乗りたい、病気になったらすぐに治療してもらいたい、長生きしたい、いつでも美味しくて安全な食事をしたい。
で、こういう考え方がこれまで過剰に人口を増やし温暖化を加速させ、残念ながら環境を悪化させてきた。
人道主義と環境問題対策は当たり前には両立しません。環境が改善するためには人類が去るしかない場合もある。人類が飢餓にも病気にもならずに増え続けるようなら環境は悪化する。
もちろんCO2削減のため各国が歩み寄って協力するのは決して悪いことじゃないし、一歩ずつでも環境と人間の暮らしが両立できるようになっていければいいなって思います。それが理想だし。
理想は抱いても構わないが、その実現は非常に難しいことで、いくらか妥協しなければならないこともある。
結局、今ある何かを犠牲にしなきゃ何かは手に入らない。その絶対的な真理を理解しないで環境問題対策を叫ぶのは間違ってると思うな。
原発をなくせ!CO2を減らせ!世界各国は環境問題に今すぐ取り組め!でも便利すぎる今の生活は維持したい… →これじゃあダメなんですよね
便利すぎる生活を何とかしろ、って叫ぶのならそれは一つの解かもしれません。
コロナによるテレワークの普及や過剰なサービスの縮小は、紛れもなく地球環境の好転に寄与してると思うよ?もちろん、それによって打撃を受けている産業の人もいるわけですが…。
ほんとに、よくできてますよね地球って。
第二次世界大戦では世界中5000万かそれ以上という膨大な死者が出たのだが、そのほとんどが戦地に駆り出された男たちだった。戦場であれほどまでバタバタと男が死んだのに、それが一定期間経つと全世界の男と女の比率はほぼ五分五分の水準に元通り。どうしてそうなっちゃうのか。そういうのも不思議でたまりません。結局人間そのものが核戦争やウイルス、環境問題によって絶滅するってことはそうそう無いでしょう。だって地球がやりたいのは人類の滅亡じゃなくて、あくまでも生態系・環境のバランスを保つことだから。
そりゃ地球が他の生物を差し置いて人類だけを特別扱いする義理なんてどこにもないんだからね。
だから、
この世で唯一絶対的に平等な思想を持っているのはマルクスやレーニンのような共産主義者ではなく、この地球です。
地球こそが究極のコミュニストです。
別に誰が不幸になるとか誰が幸せになるとか、そんなのは地球が選んでやってるわけじゃないからね。そんなの地球は微塵も興味ないですよ。あなたは白人で、あなたは黒人に生まれなさいなんて、そんなのも全部究極的に平等なくじ引きでそうなったんだから。
白人だろうと黒人だろうと黄色人種だろうと、それに勝手に優劣つけて憎しみあってるのは地球じゃなくて人間ですからね。なんでも地球のせいにしちゃいけない。
まあ地球がわざと人類同士対立が生じるようには仕向けてるのかも知れないけどさ。
少なくとも、どっちが劣っててどっちが優ってるかには興味ないと思いますよ。場合によっては黒人に白人が虐げられる世界線もあったでしょうし。
実際今アメリカが黒人問題を巡って混乱しているのも、やっぱりなるべくしてなったんだろうなって。。。時代が移り変われば弱者と強者は逆転する。地球は万人にチャンスを与えてくれるとっても平等な存在なんですよね。
こんなことずっと考えてたら1日が過ぎた。もうなんだろうなこれは。。。俺は宗教家気取りなので宗教でも開いた方がいいんじゃないかと思えてくる。
信仰する神様はもちろん地球様です。いや、さらに上の宇宙様か。
俺の信じるこういう信仰なんぞ信じても救いはないけど、少なからず安楽死政策の思想的な支柱にはなり得るかもね。
安楽死だって悪いことじゃない。延命治療の是非は国民の間で広く議論されるべき事案ですし。そうでもしなきゃ日本はますます高齢化社会のツケが若者世代にのしかかり、破滅へまっしぐら。何度も繰り返しだが、様々な生い立ち・階層・階級・立場に置かれる全員を絶対的に等しく救うことなんかできない。社会保障に回すことのできる財源なんて限られているんだから。
自分の好きなブラックジャックの漫画での最大の名セリフは本間先生がブラックジャックに語りかけた「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」ってやつです。子供の時に読んだこういう話が今の自分の思想に大きな影響を与えているのかも知れない。
でも、じゃあ医者が人を救う意味って何だろう?
考えればキリがないのでこの辺にしておくけど。
手塚先生自身が安楽死や延命治療にどういった観点を持っていたのかは詳しく存じ上げないから、そういう意味で言ったんじゃないって怒られるかもしれないけど。
(もしかすると先生は安楽死医師のキャラ・ドクターキリコに、作者自身が抱く考え方のヒントを託しているのかもしれないな)