こうだったらよかったのに。こうなればよかったのに。大好きなミュージカル、ララランドと”シェルブールの雨傘”の話
いや〜〜〜〜〜ララランドなぁ。。。 公開当初は感想書くほどの価値もない映画と勝手に切り捨てていたのだが、最近改めて観直したことで評価が180度ぐるりと変わってしまった珍しい映画だ。
微妙に感じても、なぜか頭の片隅に引っかかって記憶に残り続けていた妙な映画だったが、まさか、もう一度観たことで大好きな映画に変わるなんて…。
こんな映画、なかなかない
最近ここのブログは映画レビューに一歩ずつズルズルと足を引き摺り込まれていきそうな勢いだ。そのせいで別シリーズ・欧州遠征録の更新の方が、どうにも滞りがちになりそうなんだが許してほしい。
次はローテンブルクの拷問博物館の話をするからどうにか楽しみに待っててくれ。
みんな好きだろ?暴力とか中世とか魔女狩りとかな。
さて、この前も地上波でも放送していたらしいララランドですが。しかしな、金ローはCMを挟み込まれるばかりでろくに集中もできんから面倒臭くて実は観ていなかったのだ。
だが、幸いにも我々にはアマゾンプライムという伝家の宝刀がある。
現在そちらで絶賛無料公開中だ。映画好きで時間を持て余した基本的な人権すらあるはずもない無職ならば加入しない手はない。
もちろん普段が忙しいそこのあなたも。俺はアマプラのせいでここ最近はずっと映画ざんまいの日々を送っている。ほとんど毎日一本ずつ観ているのではないかな。
しかし過去に一度観た映画をもう一度見るのってなんか苦痛なんですよ。なんとなく。
苦痛ってか…なんてかほら、一度観た映画をもっかい観るくらいなら新しい映画を観て見識を増やそうだとか、そんな感じになるわけです。
だってほら、
人生における大事なことの8割は映画で学べるから。
どっかのお偉いさんもそんなことを言っているよ。
しかし人間ってのは、どんなに頑張っても昔観た内容なんてすぐ忘れちゃうもんだなぁ。
そもそも俺の脳みそは近頃ひどく劣化しているの。この前もマッドマックスのことをベイマックスと言い間違えて大変なことになってしまった。
つまり
ベイマックス・怒りのデスロード
こいつは強そうだ。
この言い間違いで完全にこいつはアホだなぁと思われてしまった、爆走する真っ白な巨体なんて子供が泣く。
そんな余談はどうでもいい。
とにかく最近ひどく言葉が思い出せず、なかなか出てこない。身体的な老化はいよいよ脳にまで達したと言える。
有名人の名前もろくに捻り出せない低脳チンパンジーが2年前、3年前、それより前の映画の内容なんてまともに覚えていられるわけがないのだ。
だから次々と新しい映画を見るのではなく、たまには振り返って昔観た映画をもう一度落ち着いて観てみようぜ、と今更になりようやくアマプラにてララランドを観てみようという決断に至ったのだ。
繰り返しにはなるがララランドを初めて劇場で観た時は、どうも好きになれなかった。
やはりどんな映画にでも言えることなんだが、先入観というのはあらかじめ捨ててからスクリーンに臨むべき、とひどく痛感したのは皮肉にもこの映画が最初だった。
楽しげに踊っている二人。夕闇に彩られる美しい情景。
予告で見たことのあるこれらの印象が、おそらくこの映画を、きっと幸せいっぱいな楽しいミュージカル映画として連想させたのだろう。
先入観というのは一種の期待に他ならない。
心のどこかでそうなって欲しいと思ってたのに、それが裏切られたというような感じだ。
期待が大きいほど裏切られたと思い込むのが人間の性。
劇場を出た後、一緒に観に行ってくれたTwitterの友人(フォロワー)に愚痴など散々吐いたものだよ。。。
なんかなぁ、二人の関係がこんな風に終わっちゃうなんて聞いてないぜ〜〜〜5年後ってなんだ。重要な過程を吹っ飛ばしてその結末はなさすぎる。せめて過程を描いて欲しいよ。。。
とまぁ、当時の俺はまさにそんなことを思っていたのだが、まさに愚の骨頂。
この無知さ加減と不満の溜まりようは人生に未熟な自分をまさしく物語っていたのである。
人との関わり方や接し方、生き方とかを学んだ今じゃ少なくともこんな感想にはならない。
だって劇中の雰囲気から漂ってくる微かな予感を拾い上げれば二人がうまくいかないのは明確なんだ。
夢がようやく叶いそうだなと思ったところで突然5年後とか、そんな風に展開を飛ばしたのは、そこを描く必要はないから。ダラダラ間延びするし。意図的に省いたんだろう。
描く意味はない。
当時の自分はアホだから、ミアとセブの二人の間に漂っていた微妙で不穏な先行きの暗い空気感を感じ取ることができなかったらしい。
映画の中の二人に蔓延っていた若かりし頃の過ちというか未熟さは、客席にぽつんと座っている自分にも当てはまっていたのだ。
ラストの、ミアがセブ以外の別の男性と腕を組みながら店に入るシーン。
そこからの展開が圧巻だ。
ステージの上でピアノを弾くセブを目にした瞬間、初めて出会った時のことが走馬灯のように彼女の頭の中を駆け回る。
一瞬何が起こったか分からなくなる。俺も初見ではここで酷く裏切られた気分になったが、でもそれは、こんなにも愛していた彼というものを改めて強く意識した瞬間。
彼との関係を左右した過去の分岐点の数々。選択肢。
今だったらこうすればよかったのに…なんて、あの時に選ぶべきだった選択は今ならちゃんと正解が分かる。はっきりしているのに。あの時は未熟だったから、冷静になれなかったから、何一つ分からなかったんだ。
こうだったらよかったのに。
こうだったら、二人が今も肩を並べて座っていたのかもしれないのに。
今、彼女の隣にいるのは愛した人ではなくて愛する人。
人生は選択の連続だが、でも今までの自分の選択は誤っていた、なんて考えたくはないんだよ。
あの時の選択が間違っていると言ったら、今の自分の存在の否定につながってしまうから。
だが、それでも人っていうのはそれでも後悔するかのように、つい思い返してしまう。
皆さんにも、あの時の選択は誤っていたからもう一度選択肢の前に立ってやり直してみたいだとか、そんな人生における重要な分岐点はいくつもあったでしょう。
この映画を見た瞬間からふと脳裏に浮かんだ一つのミュージカル映画がある。
シェルブールの雨傘、という不朽の名作だ。
これはフランスの1963年のミュージカル映画だが主役のカトリーヌ・ドヌーヴ演じるジュヌヴィエーヴについつい惚れ込んでしまう。
よく考えてみりゃ、ひどい女なのにな。
1957年、フランスの港町・シェルブールで傘屋を営む母親とその娘ジュヌヴィエーヴは一人の自動車整備工の男性ギィと恋に落ちるが、彼との結婚に母親は強く反対していた。
彼の夢は自身のガソリンスタンド・自動車整備工場を持つこと。
だが、それから間も無くしてギィは徴兵によりフランスの植民地・アルジェリアで起きた戦争に行くことに。
離れ離れになったことでギィとジュヌヴィエーヴの関係には徐々に亀裂が走っていくことに。
遠距離恋愛ってのはいつの時代もうまくいかないもんだよ。
ある日、ギィとの赤ん坊を身ごもった事実を知ることになったジュヌヴィエーヴは宝石商の男性に出会う。宝石商で仕事もできる裕福な彼と一人娘が結婚することには彼女の母親も非常に前向きだった。
もちろん最初は意地でもギィとの結婚に固執していた身重のジュヌヴィエーヴであったが、彼の優しさや一途さに惚れ込み、やがては結婚を決意してシェルブールを離れることになる。
そして、かつての恋人ギィが復員してシェルブールに戻った時、そこにはすでに彼女の姿などない。ギィは悲しみにくれて自暴自棄になる。
働いていた自動車整備工場も辞め、著しく心が荒みきっていた彼を優しく気遣ったのが昔からの友人マドレーヌだった。
次第に彼女の優しさに気づき、ギィはマドレーヌとの結婚を決意する。
そしてクライマックス。
ジュヌヴィエーヴの運転する車が久々にシェルブールを走り、給油のために一軒のガソリンスタンドに立ち寄る。彼女は小さい娘を一緒に乗せていた。
そんな雪の中のガソリンスタンドから一人、そっと姿を見せたのは、かつての恋人だったギィ。
こんなところで会えるとは微塵も思わなかったのに。。。
「あなたは、今幸せ?」と尋ねる彼女に、彼は一言「幸せだよ」と告げる。
ギィにも奥さんと子供がいるのだ。
それに、自分のガソリンスタンドを持つという夢を叶えている。
事務所。そばではキラキラと光るクリスマスツリー。
「(クリスマスだし)遅くなるといけないから」
ギィが車に乗るよう彼女に勧めて、二人は別れを告げる。
この名シーン、ララランドのクライマックスに似ているなぁと感じた。
そもそもララランドの中盤で、ミアがノートに「ジュヌヴィエーヴ」という名前を書き記し、カメラも、そんな彼女の文字をクローズアップしているのだ。
まさに”シェルブールの雨傘”を暗示するかのような演出。
この時点で二人の将来的な関係にはすでに陰りが見えていると言っても過言じゃない。
恋愛と愛情は違う。
恋は一時の気の迷い、なんて言い方もされるが本当に一時的なもんだ。
いつか、ふとしたことで相手の心が離れるのなら、それは恋だ。
恋ってのは相手と手を繋いでいる一方で、相手の足を踏みつけている関係だよ。
俺はいつもそう言っている。
足を踏みつけなくてもよくなったら、本当の愛になる。
出会ったばかりの恋人ってのは互いに信じあえなかったり、実はどこかで分かり合えなかったりするもの。だから相手と喧嘩して別れを告げられたりしても仕方ないじゃないか。
きっと二人の間に本物の愛情なんて存在しなかったんだからさ。それで裏切られたなんて思っちゃいけない。
ただ相手と上手く手を繋げなかっただけ。足だけ踏まれてりゃ誰でも逃げていくよ。
自分に無いものを相手は持ってるだとか見た目が好みだとか、たとえそんな部分に惹かれたとしても本当の愛情と思い込んじゃいけないよ。
恋は盲目なんて言うだろう、相手のダメなところも好きだと思い込めばこそ魅力に映るもんだ。
そして所詮、そんな脆い関係なんてさ、お互いの心がふっと離れた瞬間簡単に引き裂かれる。遠距離恋愛でお互いが上手くいかないのは愛がなくなるから。
それか、元々存在していなかったか。
だから恋と結婚は違う。
バンドマンのような格好いい男に恋してても、結局結婚するのは高校時代のなんてことない平凡な優しい友人、なんて話はよくある。
遠くにいても、いつでも互いのことを思いやったり支えたりして、会えなくてもどこかで必ず心が繋がっていた。そういうのが愛情だ。
だから遠距離恋愛ってのは、それが恋なのか愛なのかを測るリトマス試験紙なんです。
皆さんにシェルブールの雨傘の名セリフを紹介しよう。
ギィとの子供を身ごもったと知った孤独な主人公ジュヌヴィエーヴに母親が言った言葉だ。
「宝石商さんが、あなたのお腹に赤ちゃんがいるって知ってもあなたのことを愛すると言ってくれるのなら、それこそが本当の愛だわ」
宝石商はギィとの赤ちゃんを身ごもっていた彼女に、それでも好きだと伝える。
そんな一生懸命さにジュヌヴィエーヴは惹かれ、彼と結婚するのである。
そして彼女は女の子を生んだ。
ジュヌヴィエーヴはかつてこんなことをギィに言っていた。
「あなたとの赤ちゃん、女の子ならフランソワーズって名前にするわ」
そして時は流れて、クライマックスのガソリンスタンド。
夢を叶えたギィが、彼女の車に乗っている子供の名前を尋ねると、ジュヌヴィエーヴは「フランソワーズよ…」と呟いた。
こんなにも胸が苦しくなるシーンはなかなかあるまい。
それだけじゃない。一方で、ギィとマドレーヌの間に生まれた男の子の名前は「フランソワ」なのだ。
二人の間で交わされた約束は、二人の子供の名前として残っている。
二人の心に刻まれた愛は、まだ完全には消えていなかった。。。
ララランドのクライマックスでも最後、8ミリフィルムで二人の幸せな結婚生活が映し出される名シーンがある。
映像に映る二人の間には小さな子供もいる。
こうなればよかったのに。という彼の想いが可視化されているのだ。
だが、そんな彼の想いも虚しくフィルムは途切れて、カメラは現実でピアノを弾くたった一人のセブを映し出す。
別の道を歩んだ二人が顔を合わせる瞬間はそんな風に残酷なのに、とても美しい。
シェルブールの雨傘では最後、ジュヌヴィエーヴがギィに「今幸せ?」と尋ねるが、別れて、それなりに年数を重ねた男女が再会した時に巻き起こる溜まりに溜まった感情を一言で端的に言い表せば、きっとこの言葉が最もしっくりくる。
胸が締め付けられるような鋭い切なさに襲われても相手を気にかける気持ちは、あの時と微塵も変わりはない。
むしろより強くなっているはずだ。
自分が好きになった人には、誰よりも幸せになってもらいたいから。
ミアが店を出る直前セブに微笑みかけるシーンも、やっぱり幸せそうに夢を追いかけている現在の彼を見れて安心し、そして自分たちはそれぞれ違う道を歩んでも歩み続けることができるんだと、そんな確信を抱く名シーンなのだ。
言葉にしなくても表情だけで相手の想いは伝わる。
そしてミアはかつて愛した彼に背を向ける。
決して振り返ることはなく、今愛する人と新しい道を歩んでいく。
非常に美しい映画だと実感するまでに時間がかかり過ぎてしまったララランドだが、今なら胸を張って好きだと言える。
いい加減にBlu-rayでも買おうかな。
なんにせよ、もう一度劇場で観たい名作映画であることには違いない。
それでは、このへんで。