ソビエト女のファッションだ
さて本日も、「月刊ロシア」のお時間がやってまいりました…。
いつのまにそんなものが発刊されたんですか編集長
「ぜひとも月刊ムーのような胡散臭さを目指したいものです。」
…とはいえ、ちゃんと一応毎回下調べもしてあれこれ記事にしているのでそれなりの情報源やソースはきちんとあるつもりですが、時々酔っ払った勢いや深夜テンションなどの気持ちだけで書いているという側面も多々あるので、ここのブログに書いていることを100パーセント鵜呑みにされると非常に困ります。参考程度にとどめておくれ。アンサイクロペディア並みに嘘八百が並べ立ててあり、客観性には乏しい。
特に歴史認識の面に関しては韓国政府ですら腰を抜かすほど中立性を著しく欠いており、卒論の参考文献などに使えばあなたは間違いなく落第しますし、そちらの大学の教授陣が僕に総出で嫌がらせをしてきます。やめとくれ。ご遠慮ください。
さて。それでは今回も正直あまりスポットライトの当たらない話題についてお話ししましょう。
ソビエト女性のファッションについてです。
そもそも彼女たちが普段どんな格好をしていたか皆さんは想像がつくかしら。
スラヴ人とはいえ民族衣装なんか着ているわけじゃない。
無論、ソ連だからと言って皆が軍服や、中国や北朝鮮のような人民服を着ていたってわけでもない(まぁ、みんな似たり寄ったりな服を着ていたという点ではもはや一緒なのかもしれないが。。。)
それでもやはりソ連でファッションという概念は当初かなり軽視されていたのです。贅沢=ブルジョワはそもそもの敵ですから。
軍事一党独裁国家ソビエトにおいて衣服は二の次である。日常に不自由無ければデザインなんてさ、と思っている人も非常に多かった。
とにかく武器、武器、武器を生産するべく、すべてはお国のため、民需は全部後回しで、ロケット工場や軍需工場ばかりがフル稼働している有様でしたので、民需製品は常に品不足状態。
トイレットペーパーですら自国では生産することもままならない状況である(そんな国が何故世界で初めての有人宇宙飛行を成し遂げたのやら。。。)。
年から年中、戦時中みたいな国でした。
そして、そんな彼らの服のデザインを手がけるのも全て国営企業のお仕事。服を製作するのは政府の一部署にすぎません。 分かりやすい例えで言えば日本で服を作るメーカーがユニクロだけしか存在しない感じ。
おっとこれ以上はいけない。ユニクロの悪口はここまでだ。ユニクロは立派な資本主義者です。間違いない。(だからなんだってんだ)
でも確かに我々もアウターなんかを全部こういうところで揃えちまうと、街中で似たような服を着た人と出会ってしまう率が若干高くなるでしょう?
最近のユニクロのデザインは実際なかなかシャレてるし、頑張ってるし、なんせ価格が安い。あれこれブランドを考えるよりずっと効率的であるのは間違いない。
服やファッションに対して興味もこだわりも抱いてない人にはこれ以上ないほどの助け舟になるだろう。品質だって悪くないのだから。
しかしメイドインチャイナによる大量生産ゆえに他者との差別化は難しくなるし、全部をそこで揃えようとすれば、どうしても「あの人、ダサいよ」などと陰で指を差されがち。
日本人みたいな見た目(服装)やブランドをやたら気にする民族からの風当たりというのは強い。
つまりソ連という国では常時こんな感じだ。
どこへ行けども似通った服装の人間が行き交う。それでも、お互い見慣れてるし何とも思わないようだが。(ほんまかいな)
ダサいなどと言ってらんない。
だって買うところがユニクロしかないんだもん。。。
しまむらとGUとユニクロが覇権を争う日本の田舎より悲しい現実だ。
最近じゃ無印良品も頑張ってるし何より質がいいので第四の勢力と目されている(長くなるのでこの手の話はまた今度)。
そんな状況でも、なんとか工夫して他人とは違った個性溢れるおしゃれをしたいと思うのが女性の気持ちです。これに国境などない。万国共通です。どんなに高い鉄のカーテンでもやすやすと乗り越えるのだ。
そこで彼女たちは少々高価でも海外(西側)から輸入されてきた衣服やブランド品を手に入れようと奔走したのです。男性の目がどうだとかモテたいとかなんかじゃなくて、女性は常に可愛くありたいもの。鏡に映る可愛い自分を見て安心したいのです。
ソビエトの男性にはこんな女性の気持ちってのはなかなか理解されなかったらしいが。
自国では資本主義を否定しているので、みんなが好き勝手作って売るわけにはいかないけど、輸入されたものを買うのはセーフだったようで(もちろん売るには当局の許可が必要)。
でも品不足のソ連じゃそもそも国産の衣服を買うのだって一苦労だ。ダサいから輸入物の服が欲しいと駄々こねて喚いても、ソ連で輸入品を買うのは至難の技。
自国製品を買うのだってしんどいのに海外製品なんて夢のまた夢だろう。。。
さて、もはやソ連の風物詩とまでなったのはこの見事なまでの行列ですね。
一体何故こんなアホみたいな行列があちこちにできたのかというと、最初にお話ししました通り、兵器の作りすぎで国民の生活必需品の生産は全て後回しにされていたので、慢性的な品不足が生じていたからです。
共産主義国なので当然働いてきちんとノルマを果たせば、みんなお金は平等に与えられていましたが、いくらお金があっても欲しいものが手に入らないんじゃどうしようもないよ。
ルーブル紙幣?そんなハイパーインフレ状態のマルク紙幣みたいな紙屑なんかより、着実にモノが手に入る配給切符を寄越せ。
モスクワやレニングラード(サンクトペテルブルク)のような大都市へ住もうにも土地や物件は余っておらず、家はそもそも購入できない、マンションにも入居できない、そのせいで酷いあばら家に住む…なんて事案も多くありました。
結局お金を平等に持ってても、手に入る物の質や量によって格差が生まれる。
これが共産主義国の実態です。所得がいくら平等でも、どうにもならんもんはならん。
完全無欠の共産主義なんて永遠に成し得ないのがお分かりいただけるでしょう。
この長い長い行列、初期の頃は順番がごちゃ混ぜになったり横入りが生まれたりと混乱もさぞ酷かったのでしょうが、これも徐々にソビエト式に洗練されていきます。
並んでいる最中にも一旦列を抜けられるように(だって何時間と待つ羽目になるので)、人々は自分の一個前に並んでいる人に今並んでいる順番を聞いて、その次の番号をボールペンやサインペンで手のひらに書き込みます。
後ろも同じ。みんな手に自分の番号を書いて、順番が近づくまで他所で他の用事を済ませたりしていたそうですよ。
さて、ようやく自分の番が回ってきた、というところですが…お店の中に並んだ品物を見渡しますが、この時、並んだ順番が遅かったほど店頭に残っている品物の数は当然少なくなっています。
もしくはせっかく並んでいたのに何一つ物が残っていなかったとか。
ソ連はあれです、やっぱコミケです。日常が数少ない同人誌の奪い合い。
話が徐々に脱線気味ですが、そんな風にせっかく海外ブランドを手に入れようと意気込んでお店に並んでも、早く並ばなくちゃいいものはなかなか手に入らない。
ちょっとズルいけどお店の店主と事前に仲良くなっておくことで「○○日に海外製品が入荷するよ」などという情報を事前に得ることができ、その店の前にいち早く並んでしまう、なんていう手法もあったりしたそうです。
ちなみにソ連では、街中で行列を見かけたらとりあえず何を売っているか分からなくとも並べという教えがあったので、みんなそんなスタンスで生きていました。
並んでいれば何かいいものが買えるかも〜くらいの気持ちですよね。
今日は絶対にこれを手に入れるぞ!と意気込むほど手に入らなかった時のショックは大きくなるので、ロシア人のこの姿勢は我々も見習っていきたいものです。
もちろん官僚のようなエリート男性と付き合うとか結婚することで海外ブランドを手に入れるハードルもぐっと下がったそうですが…なんかそれは、もう裏技というかなんというか〜なので省略。
特権階級(ノーメンクラトゥーラ)というか、赤い貴族とでもいうべきか。
共産主義の矛盾である。
さて、海外ブランドもなかなか手に入らない。じゃあどうするのか。
自分で作ってしまいましょう。
当然に、このような考えに至ったわけです。
自分で作って自分で楽しむ分には特に規制もありませんでした。
布地や糸はまだ既製品に比べて手に入りやすかったのです。
東欧の布地はレトロ感あってとても可愛い。ワンピースなんかは簡単に作れるという理由もあってかかなり人気でバリエーションも豊富でした。
そもそも書店などに足を運ぶと衣服のファッション専門誌や、型紙が付いている本まで売っていたほど。
70年代から80年代にもなるとソ連政府がいかにも自分で作ることを推奨しているのかと思ってしまうほど店頭に並んでいる本や雑誌の種類も非常に多くなっていきました。
もしくは衣服を作れるメーカーや専門家に布地を渡して直接依頼し作ってもらう、という手段もありました。オーダーメイドというやつです。
もちろんそれなりに高額な出費にはなってしまいますが、他の人とは異なったデザインのコートを一着持っているだけでもその優越感は凄まじいもの。
文豪ゴーゴリの『外套』という本にもなるくらいロシア人のオリジナルの外套=コートに対する思い入れは強い。
確かに冬の長いソ連でアウターは特にこだわるべき一品です。異論はない。
さてここまで述べた通り、自分で作るのもいいし輸入品を着こなすのもいいのですが、実際に品質だけで言うとグムといったモスクワのデパートに並んでいるソ連製の衣服の方が、デザインの品揃えは最悪だけれど何年も着回すことができて、とっても丈夫だったそうです。
ソ連製の衣服に関してはダサいだとか種類が少ないだとか不満や悪口が多いけど、良い点もたくさんありました。
一応念のために擁護しておきますね。
ごわごわするやつばっかだけど。特に綿のストッキングは丈夫だけど不評だったりとか。国民すべてに供給するためにどんな衣服のサイズもきっちりとした規格が定められてたりとか…ウール製の制服は汗を吸い込んで臭いとか、とにかくダサいとか(あー結局悪口だ)。
それではソ連時代の87年から89年頃に雑誌で紹介されていたオシャレで可愛いお洋服を紹介していきましょう。
この頃のソ連は崩壊も間近に迫っていてゴルバチョフによる改革=ペレストロイカも進み様々な規制が取り払われ、おかげさんでソ連人民のオシャレ感覚も飛躍的に進歩しました。
おまけにはなりますが最後はソ連の子供達の制服を紹介して終わります。
こちらはもちろん全てがソ連国産の制服。
みんな一緒だけど、デザインは古風で可愛らしいし、なんだかんだ言っても人気です。
こういう制服は上の子のお下がりを貰うことが多かったそうですが。
ちなみにソ連エストニア共和国(91年にソ連から独立)なんかでは三年に一回ほど新品と交換になったりしたそうで、連邦の中でも共和国によって待遇が違ったりしました。
上の制服の原型は帝政ロシア時代からありますし、もちろん現在のロシアでも着られているというので大変息の長いデザイン。
ピオネール青年団は、世界がイギリス発祥のボーイスカウト連盟に突き動かされていく中、ソ連独自に発展した組織で、やがては東ドイツなどの東側同盟諸国の間でも広まりました。
ボーイスカウトと基本的な活動内容は一緒でも、入団するためにはある程度の成績優秀者でなければならないだとか、年齢制限があったりとか、いろんなハードルがあったとか。
式典で行進したりサマーキャンプで共産主義思想を教え込まれること自体がというより、胸元に輝く彼らの赤いスカーフやレーニンの肖像画が刻まれた赤いバッジこそが少年少女たちの心を何よりもくすぐったのです。
クラスでピオネールに所属していた子供は、周囲の子供たちから渇望の目で見られていました。
いかがでしたか。ソ連の衣服に対するイメージが変わってくれれば自分としても本望です。
それでは次の機会にまたお会いしましょう。