『草原の実験』〜穏やかなタイトルに衝撃的なクライマックスのロシア映画〜
いやぁこれねぇ、、、
なんとなく前々からご紹介したかったのだが、最近久しぶりに観返してすげえな〜〜と思ったし、せっかくなので本日はこの『草原の実験』という映画をご紹介したい。
日本じゃ珍しいロシア映画です。だがちゃんとAmazon Primeにて無料公開されているので、興味がある会員様は是非とも観て欲しいなと。
結構国際映画祭とかでも話題になった作品らしいっすよ。
この映画を初めて観たのはかれこれ3年半も前になる(もうそうんなに経つのねえ)。まぁええわ、とりあえず何と言っても主役の女の子の可愛さに惹かれたわけなんだが。
なぁ、、、おい待て、
なんだこりゃ、
この子なんだがとっても美しくないか。
こちらが主役エレーナ・アンという女優さんだ。
典型的なロシア人というよりもどこか中央アジア的な雰囲気を醸し出しているので、この映画の配役にはとてもぴったりである。
俺は日本の女優とか声優とか、名前も全然覚えられないくらいに基本的に他人に対して興味ないんだがこの人は別格かもしれない。
ロシア人と韓国人のハーフなんだとか。
この映画、もはやこの子を鑑賞するためだけの映画だ。
間違いない。てか劇中のカメラの大部分はこの子に当てられてますし。
草原というタイトルのキーワードに、主人公のアジア系の顔つき。
その当時から俺は旧ソ連、とりわけカザフスタンやウズベキスタンといった国々に対して好奇心のような興味を抱いていたので、きっとこの映画もそれらの中央アジアが舞台の映画に違いねぇな〜〜とパケ写真を見て、そう踏んだわけである。
俺の予想は大当たりだ。見事にロシア映画。
中央アジアもソ連の構成国の一つだったので彼らの公用語もロシア語なのだ。
興味はすごくあるのに実際この地域をテーマに選んだ映画など日本でDVD化されてるのは一体どれだけあるのだろう?きっと数える程しかあるまい。(もし何か知っている映画があれば是非教えてくださいよ)
果たして需要が少なすぎるのか、供給が少なすぎるのか。いかに。。。需要はあると思うんだがな〜。
簡単なあらすじを読む限りじゃ草原の中にぽつんと佇む一軒家に住む少女と恋の話〜とか、なんだかのどかな感じに書かれてるもんだから随分と綺麗でほんわかしたお話なんだろうな〜と最初は思ったわけだ。
これは余談だが、俺は『思い出のマーニー』が死ぬほど大好きである。見事な児童文学だ。ジブリの映画も良かったんだが、あれは是非とも原作を読んでいただきたいですね。泣ける。
なんか同じ雰囲気してっからさぁ。この作品も実はマーニーっぽいんじゃね…?って思ったの。(このせいで、あとからひどい目にあうわけだが)
ちなみにこの映画、無声映画です。
セリフなんて一切ありません。
それでも心の葛藤だとか想いとかが、表情などによって観客である我々に如実に伝わってくる。とにかくすんごいねえ、こんな映画見たことないよ。
そういう意味でもこの映画は異色であると言える。
いや、そりゃ100年前のロシアには映画史に残る傑作「戦艦ポチョムキン」とかいろいろあったけれども(あれはサイレント映画)
でも時代は21世紀だぜ…???
技術的な問題とかがあるはずもなく、いくらでもセリフなんて吹き込める。
でもこの映画を撮ったアレクサンドル・コット監督はセリフをあえて入れなかった。十分。ああそうさ、そんなもん最初からいらないんだと教えてくれる。
それと同時に女優の演技力も試されるというわけだ。演劇経験者の自分としてはなんとも恐ろしい話だが。
台詞なしの役やれとか言われてもほとんど苦痛でしかないもの。
俺には無理だね。そんなの、やってられん。
主人公の少女はこんな風に草原に佇む一軒家に住んでいる。
周りには見渡す限りのどかな草原が無尽蔵に広がっていて、どこにも同じような家は存在しない。中央アジアの草原はとてつもない広さだから、きっと我々日本人には想像もつかない世界です。
それにしても、これはいつの時代なんだろうか〜。
中央アジアとはいえ、ここがソ連であることを象徴付ける小道具が、本作ではたくさん登場する。
ラジオから流れてくるロシア語の音楽や、父が持つ新聞にはプラウダ(ソ連共産党機関紙)のロゴがちらりと見えたり、彼女がトランクにしまい込んだ本の表紙にはB.マヤコフスキー(ロシア・アヴァンギャルドを代表する詩人)の名前が書かれていたり。だからこれは詩集だろうね。
例えば彼女がこんな風に葉っぱで描いていた絵。
おそらくソビエト連邦(現在ではロシア)の首都モスクワにあるこれだろうか。多分そうだ。クレムリン(日本でいう国会)にあるスパスカヤ塔と呼ばれる有名な時計塔でしょうね。
そのそばを飛行機が飛んでいる様子を見ると、彼女は果たしてモスクワに行ったことがあるのかな、それとも行きたいと願っているのかな〜などと考えてしまうのです。
多分この映画の舞台は中央アジアのどこかなんだろうけれど、中央アジアから首都モスクワはとても遠い。
それも、果てしなく。
ソ連時代にはカザフスタンもウズベキスタンも同じソ連という一つの国だったけれど、同じ国の首都とは思えないほどの距離がある。
分かりやすく言うとアメリカの西海岸ロサンゼルスから東海岸ワシントンDC並みに離れてるのだ。
おそらく当時ソ連の僻地に住んでいたほとんどの国民はモスクワには一度も行かないまま死んだのです。でもそんなモスクワという想像もつかない大都会に住む一部の政治家たちが決めた政策やらなんやらで、ソ連中あちこちの僻地では、彼らの身勝手さによって自分の人生を左右されていた人たちが数多く存在したわけだ。
あれだけ広いソ連でも、なぜだか権力だけは隅々にまで行き渡る。
無理やり工場で働かせられたりとか、好きでもない共産主義を教え込まれて、イスラム教やキリスト教といった宗教を捨てるように口うるさく言われたりだとかして。嫌になっちゃうよなァ〜好きなように農業や牧畜をさせろってんだ。
それでも田舎の方は党による統制も緩やかで、悪夢のスターリン体制下とはいえ、そこまでなかったんじゃないかなと。。。いやすまん自信ねぇわ、収容所とかたくさんあったらしいしやっぱ嘘で。
最初は少女の暮らしぶりを美しい風景とともに、なんとな〜〜〜く描いていく。
少女に思いを寄せるカザフ人(仮)の少年がいるんだが、少女はなんとなく彼に対してはそこまでのときめきを感じていない様子。あんまり二人一緒でも楽しくなさそうで無表情だしなあ。
そんなある日、少女のもとに現れたロシア人の青年。
少女は彼にときめきを感じるようになる。
細やかな表情だけでそんな心情まで読み取れちゃうなんて、やっぱエレーナ・アンの演技すごいな〜〜〜とめっちゃ思ったのよ。
しかし、そんな平凡な日常も、やがて重たそうな展開になっていく。
つまりなんだこう、暗雲が漂ってくんの。。。
※こっから先は過度にネタバレを含むし見てから読みたいって方は是非そうしてくれ〜〜〜〜。ネタバレ気にしないって方は最後まで一気に読んでください。
いつもトラックに乗ったまま、どこか知らない草原の先にあるという”仕事場”へ向かっていた彼女の父親だが、或る日、彼はふらふらになって帰宅した。
父の身に何があったのだろうか。
ただ疲れているだけなのだろうか。
その日の夜に突然、ソ連軍と思われる兵士たちが大雨の中、彼を外に引きずり出した挙句全裸にして、その身体中を何かの測定器で調べる。
おやおや、こいつは。。。
どこか悪い予感がするね。
中央アジアといえば、現在のカザフスタンにソ連時代、巨大な核実験場が作られていた歴史がある。セミパラチンスク核実験場とよばれるやつだ。
ということは、ここはやっぱりどう考えたってカザフスタンなのだろう。
もう多分カザフスタンで間違いないよ、そういうことにしといてくれ。
父は医者に連れて行かれたが、それからすぐ家に戻ってきた。
余命を宣告されたのかな。死を覚悟したのか、父は身なりを整えて滅多に着る機会もないであろうスーツをこの時初めて着込み、家の外に出したベッドの上でじっと座っていると、しばらくして、父は静かに死ぬ。
娘は父の亡骸を掘った穴の中に埋葬して家を出ようと決めたのか、父親がいつも乗っていたトラックを運転して草原の中にある一本道をずっと進んでいくのだが、途中でガソリンが切れてしまい、仕方なく途中で降り、そのままとぼとぼと歩くことにした。
いつも父がトラックで向かっていた道の先には一体何があるのだろう?という疑問が彼女の中にあったに違いない。
好奇心じみた使命感に駆られて歩いて行くと、どこまで行っても何もないと思っていた草原の先に、彼女は張り巡らされた有刺鉄線を見る。
それは横一直線、どこまでも続いていて、この先には進めないのだ。
この先には、一体何がある?
死んだ父は何故、いつもこっちの方角に向かっていたのだろう?
きっと彼女の中で謎は深まっていくばかり。
そんな疑問を残したまま、いよいよ物語はクライマックスに差し掛かる…。
家の外で例の少年と二人一緒に幸せそうにあやとりをしている最中、突然、背後の家の窓ガラスにヒビが入る。
二人が異変に気付いて立ち上がると、稲妻のような閃光がピカッと光り、風が吹く。
草原の先にまばゆい巨大なキノコ雲が立ち上り。。。
二人は互いの手を固く握り締めて放さない。
砂塵とともに、雪崩のように襲う爆風が二人を包み込み…
実験ってその実験かぇ。。。
草原の(核)実験
ここでようやくタイトルの意味を理解して思わず腰を抜かしてしまう。いや、まあ、なんとなく中盤あたりでそんな予感はしていたが…ある意味で究極のバッドエンドじゃないですか。
でも、草原のコントラストといい、キノコ雲が何故だか美しく感じてしまうのである。
1940年代の後半、ソ連は核開発に乗り出す。
おそらく本作はそのソ連が行なった核実験に巻き込まれた住民がいた、という噂に基づくものだろう。
第二次世界大戦中、アメリカの最高軍事機密であるマンハッタン計画(原爆開発)の中心地・ロスアラモスに潜入させたスパイを通じて核兵器の製造方法を仕入れたばかりのソ連は、ソ連国内の核実験に最適な場所として土地の広いカザフスタンを選んだ。
スターリンの側近であるラヴレンチー・ベリヤが指定したのが、セメイという都市の近郊の人気のない草原地帯。
ソ連政府は、ここにセミパラチンスク核実験場を建設したのだった。
「ここには人が住んでいないので、核実験場に最適である」
ベリヤのやつは本当にこんなことを言って核実験場の設置を急がせたらしい。
よく確かめもしないで核実験場を建設し、何回も核爆弾を起爆させた。
それによってセミパラチンスク近郊に住んでいた人々はひどい健康被害を受けたわけで。今でもこの地域における癌や白血病の罹患率は著しく高いと言われている。。。まだまだ放射性物質はたくさん残存しておりますゆえ。
この映画に描かれているように核爆発に巻き込まれた住民がいたかもしれない。事実かどうかはもちろん今となっては全く知る由も無いのだが。
日本でも第五福竜丸が水爆実験で軽度の被曝を受けているし、こういうことは世界中のどこでも度々起こりうる。
というか、ソ連の開発チームも、きっと当初は核爆弾がここまでの威力になるとは思ってなかったんじゃないかなぁ〜と推察する。
少女が草原の先に見た立ち入り禁止のための有刺鉄線、おそらく当初予定されていた爆弾の加害範囲はあのエリア内に収まるだろう、というのがソ連の核開発研究者の推測だったに違いない。
ところが、核爆弾による爆風は有刺鉄線をやすやすと乗り越えてしまう。
その威力は、研究者たちの予想を遥かに凌ぐものであった。
アメリカのアラモゴードで世界初の原子爆弾を爆発させたアインシュタインやオッペンハイマー博士たちも同じようなことを言っている。核兵器とは、人類の想像を遥かに凌ぐ威力の兵器なのだ。
核兵器が少女たちを巻き添えにして爆発したのは、この映画で監督が表現したかったことの一つであるようにも思う。
核の威力は人間の手に余るのだ。
他にもいろいろとこの映画で伝えたいことはあるんだろうが、結局は人々の美しくて慎ましい暮らしを一瞬にして奪い去った核兵器の恐ろしさというか歪さを監督は丁寧に表現したかったんでしょうね。
少女はマヤコフスキーの詩を愛し、葉っぱで絵を描く平凡なソ連に住む一人の女の子なのに、モスクワやレニングラード(サンクトペテルブルク)などの大きな都市に住む同じソ連の女の子たちとは違って本当のソ連を知らない。
そしてそんなソ連という彼女にとって遠い祖国は、彼女たちの存在すらも無いものと勝手に決めつけて核実験に巻き込む。酷い話です。
そういう見方をするとこの映画もぐっと重く感じられるのですよ。
しかしこの映画に映り込む世界は、何もかも美しいのです。
核爆発だって、美しいのだ。奇妙な余韻に包まれること請け合いである。
興味がある方はぜひご鑑賞ください。きっとあなたも中央アジアの魅力に取り憑かれるはず。(核兵器なんかで魅力を感じちゃまずいのだが…)