欧州遠征録【11】チェルノブイリ原発ツアーに参加したお話
随分ご無沙汰しておりましたが、再びブログを書きたい衝動にかき立てられて戻ってきてしまいました。まだ読んでくださる方がいるのかも分かりませんが、久しぶりに色々書き散らしてみたいなとは思います。
しかし、、、まさかこう、前回の記事からすぐ自分の大好きなウクライナとロシアが世界を巻き込む大戦争をすることになるとは思いもしなかったし、これから書く記事で紹介する原発もベラルーシから国境を突破してきたロシア軍に一時占拠されたりと、歴史の表舞台に返り咲いてしまうという事態に陥っていた。
もう何もかもがびっくりだよね。。。
戦争の予測は立てられんかったとはいえ先見の明がありすぎると自分で言いたくなるね。
行きたいと思っていた世界遺産や観光地、建物がね、いつまでもそのままの状態で残っているとは限らない。
2019年の10月頭に首里城を訪れたらその月末には燃えたのだから間違いない。
てか、ノートルダムも行って2年後くらいには燃えたし・・・ウクライナは言うまでもなく。
俺がそこに行くと燃えたり戦争になるのかもしれん・・・
観光地は逃げたりしないとかいう人がいますけど、そんなのは嘘です。
まじで燃えます。今すぐ行け。行けるうちに這ってでも行くんだ。
さて、そういうわけである意味貴重な体験記?旅行記?・・・となるかもしれないので、読んでいただけたらな〜と思います。
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いざ、ツアーの集合場所へ
今日は(2016年9月17日)チェルノブイリ原発ツアーに参加すべく、朝早く起きてホテルのロビーに集合する。
昨晩一悶着あったS先輩(※前回の10を参照)は、相変わらず朝から機嫌が悪そう。
機嫌を損ねぬようにT先輩と協力しつつホテルからタクシーを呼んでツアー開始場所を訪ねることに。
・・・前回の記事の終わりらへんでも触れたことだが、ウクライナのタクシーは普通に乗るとぼったくられる。ウクライナに限った話ではないんだけど。
東欧圏に行くと絶対にぼられる。
今にして思えば本当に汚職や犯罪が横行していたヤバい国だったんだなと実感してしまうね。夜道を歩くだけならモスクワの方がずっとマシな気もする。
最近テレビやSNSではウクライナが何でもかんでも良いかのように取り沙汰されるが、少なくとも2016年時点では本当に色々とダメダメ国家だったんだ、というのは知っていてほしい。
ゼレンスキー大統領になってから色々・・・特に汚職はかなりマシになったらしいけど。
だからこそプーチンは彼が許せなかったんだわ。隣国にクリーンな・・・いかにも西側的な民主主義国家なんかできてたまるか〜〜〜と焦って侵攻しちゃって・・・
そんで返り討ちにあったんだが。
ともかく今回の戦争が彼らの愛国心や団結心を高め、その結果、マフィアによる犯罪もそうだし軽犯罪までもが減少した、というのは結構皮肉が効いたお話だろう。
このブログ名にも使っている「リヴォフ」というのは、ウクライナ西部の古都リヴィウをロシア語で言ったもの。ウクライナ人の精神的支柱になっているシンボル的な街だ。ブログ名に使うくらい好きである。
・・・そんな素敵な街をソ連時代の呼称で用いているのはウクライナ民族主義的にも今の時勢的にみても色々と最低なのだが、日本人的にはやっぱロシア語の方が語感が良いし、しばらくはこのままでいこうと思う。
そもそもキーウよりキエフの方がなんかすきだし・・・?(最低)
オデーサよりオデッサの方が言いやすくない・・・?
そもそもチェルノブイリだってウクライナ語ではチョルノーヴィリなんだし、そんなこと気にしてたらほんとにキリがない。
やっぱ長年聞き馴染んだ言葉の方が良い。だから、なんというか安易な言葉狩りはちょっと苦手というかぁ〜〜・・・
皆さんも世間体をあまり気にせず、そういうのを気にする人の前でだけ正しい歴史認識を持ってお上品な言葉遣いをして、あとそれ以外の場所では好きな言葉を吐けばいいと思うの。
二枚舌を使って賢く生きよう。
話は逸れたが、
とにかくぼったくりを避けるにはホテルから呼んで貰うのが一番。実際良心的なタクシードライバーしか来ないし(おそらくは)。
原発ツアー参加者はキエフ中央駅の近くのバス停に集合とのことで事前にメールが送られていたのだが、そのメールの文面に記載された住所をタクシーの運転手に見せたらすんなり連れて行ってくれた。
昨晩タクシーでこのホテルに来た時よりずっと安かったね。500円くらいか???昨日は2〜3000円近く取られたからさ。
集合地点についたらもうすぐにそれらしいバスが見つかった。
フロントガラスに核のシンボルマークが描かれたプレートが置かれていたので、どう見たってもうこれしかない。
今回のツアーガイドはマキシムというウクライナ人だ。英語が堪能なので、ロシア語一ミリしか理解できんしほぼ英語しかわからん我々にとっては神である。英語でさえかなり怪しいが。
さっそく届いていた予約メールを見せたらバスに乗せてもらった。そして我々はこんなマップを受け取る。
ああ、チェルノブイリ原発の周辺地図かあ。なるほど、ここをこうやって回るのかあ・・・という感じ。基本的にはチェルノブイリ事故で退避させられた人々が捨てた家とかの廃墟を回るらしい。
右上には本人の名前とか日付を書いてもらうのだが、その下に気になる箇所があるでしょ。
mSv・・・放射線が好き、詳しい人ならすぐ分かるだろうが、これは放射線被曝量を表す単位。いわゆるシーベルトのこと。
放射能・放射線に関する単位にはキュリーとかベクレルとかも使うけど、シーベルトの場合は特に人体に与える放射線の影響を表す際に用いるのが一般的。ちなみに人間の致死量となる被曝線量は6Sv〜8Sv程度と言われている。
これを聞くと1999年に起こった東海村JCO臨界事故を思い出してしまうね・・・。
あの時被曝した人は確か12Sv〜15Svくらい被曝したんじゃなかったかしら?それより酷かったとも言われてるけど。
詳しく知りたい方は「朽ちていった命」という本をご参照ください。被曝治療83日間の記録が詳細に綴られていて、あまりの悲惨さに随分重苦しい気持ちになってしまう・・・。
そういうわけで被曝線量を計測する欄があるってことは、そういうこと。
ここから先が割と危険なエリアであるということを意味している。そういえば誓約書にサインさせられたな。
さて、今回の旅で我々はどの程度被曝するのだろうか。
茂みの奥に潜む廃墟の数々
気づいたらバスはもうキエフからベラルーシの方面に向かって出発していた。
美しい景色を楽しむのも束の間、すぐに廃墟の片鱗が我々の視界に飛び込んでくる。
どうやらチェックポイントについたらしい。
ここではウクライナ軍の兵士が警備に当たっていて、我々は一度バスから降ろされてパスポートのチェックを受ける。でもそんなに緊張するようなものでもなく、荷物検査なども特段ない様子。
パスポートチェックが終わるとすぐにバスへと乗り込み、ついに立入制限区域内へとバスが動き出すのだった。
相変わらず美しい景色が続く。人気が全然なくてちょっとばかり不気味な感じもするけどね。
ここもつい最近ロシア軍が攻め込んでいたのだと思うと、不思議な感じだ。
ある程度進むと、我々はバスを降ろされて茂みの奥にひっそりと佇む廃墟に案内された。
うぉぉぉぉ。
いかにもウクライナ・・・というかスラヴ的な民家だ。
こういうのはモスクワやキエフのような都市部ではなかなか見れないので新鮮極まりない。
まあ廃墟なのが残念だが・・・。
他にも何軒かいろんな廃墟を案内してもらう。どの廃墟も茂みに埋もれていたのが印象深い。草木や木の葉には放射性物質が残留しているから、なるべく触れてはいけないと釘を刺されていたので基本長袖で茂みの中を行く。
まあ半袖な人もいるけどさ。
不気味ではあるが、ソビエト時代の暮らしぶりの残穢が程よく残されているのでポンペイのようなタイムカプセル感がある。
放置された車両に巨大なレーダー塔
茂みの中の廃墟を彷徨うこと小一時間、一区切りついて開けた道路に出たところで再びバスに戻り、次のエリアへと向かうことに。
これでもかってくらい廃墟を車窓から見せられながら、バスは進む。
その時車内では英語でツアーガイドのマキシムが色々と解説してくれてた。
何言ってたかって・・・
うーん、そりゃ・・・
リスニング能力が死んでいる自分には微かにしか分からんね
ある程度したところでバスが停車して、なんか、すごいところに降ろされたのだが。
トラックやら装甲車やらが並んでいるが、これは原発事故の際に除染作業に従事したもの。
原発の除染作業では何人もの消防士やソ連兵士が駆り出され、結果として非常に多くの犠牲を生むことになった。
たしかその惨状は当ブログでも以前レビューを書いたドラマ「CHERNOBYL」でも取り上げられていた気がするのだが、東海村事故のような犠牲者が1、2人単位ではなく数十人、数百人(あるいは、もっと)の規模で引き起こされた。尋常ではない。
特に熾烈を極めたのは原子炉建屋の屋上に蓄積した黒鉛を取り除く作業・・・。
現場の放射線量はあまりに強いため数十秒しかとどまれず、兵士はバケツリレー方式で積もった高濃度の放射線を発する黒鉛を除去する。
さすがに人間では酷だ、、、ということでロボットが投入されたが、放射線をもろに浴びると機械は色々おかしくなる。
まあそんな事情で、結局人間によるバケツリレー方式が選択されてしまったわけだが。
・・・人間はロボットみたいにすぐには壊れないし。
茂みを抜けたで突然現れる巨大な電波塔。ソ連時代の軍のレーダーとかなんとか。
君たちはデカいものが大好きだね・・・。
まあレーダー塔もすごいけど、どちらかというと空の青さに目を惹かれる。
ほんとになんでヨーロッパってこんなにお空が綺麗なんだ。
そしてまたバスまで戻って乗車し、バスは別のエリアに移動する。するとついに今回一番生で見たかった建物が次第に姿を表す。
ここで30年前(2016年当時)さまざまなドラマが繰り広げられたと思うと胸が熱くなる。
そんで、この川に架かる近くの鉄橋をみんなで歩いた。
またバスに乗って、今度はかなり近くまで来たね。というかもう原発の敷地内だ。どうやら近寄れる限界はここまで。
こうしてみると目の前に不気味な怪物がいるような感じ。
あの石棺と呼ばれるコンクリートの構造物は事故後に命懸けの作業によって作られたもので、この石棺のおかげで放射線の流出を食い止めた。
建設に従事した作業員のことを考えると居た堪れない。そして、あの中には回収できなかった原発作業員の遺体が今もあるとかないとか。
二度と回収できないし、回収できたとて放射性物質として扱われて鉛の棺に入れられて地中深くに埋葬される運命にある・・・なんとも悲しい話だ。
お昼になってまたバスで移動し、新しめな施設に案内された。
案外勘違いされるがチェルノブイリ原発には原子炉がいくつかあって、事故を起こした原子炉以外は現在も稼働している。
当然そこでは原発作業員が働いており、常にキエフや周辺地域に電力を供給しているのだ。
そんなわけで我々の案内された施設は原発の作業員用の食堂で、ツアー参加者はここで社食を味わうことに。ウクライナ料理ボルシチは結構美味しかった。
原発事故で全体が廃墟となった街、プリピャチ
このあとまたバスに乗って次の目的地プリピャチへと向かった。
バスの中では1980年代のソ連時代のプリピャチ市内の暮らしを写した映像がモニターから流れていて、ソ連時代の悲壮感たっぷりな歌も流れていた。
なんとなく80年代にタイムスリップしたような気持ちに浸る。
廃墟の校舎を進んでいくとやがて、狭い入口をくぐって校舎の屋上へと出る。
地上を歩いているときは生い茂った草木で、ここが町だったという実感が湧かなかったのだが、こうして屋上からみると高い建物がよく見えて街の全貌が掴めてくる。
全部廃墟かあーって思うと悲しくなるよね。
校舎を出て、街の中を歩く。すると遊園地のような場所に行き着いた。
近くの水溜りで、ツアーガイドのマキシムがガイガーカウンターを近づけて見せたところ、それはビビビーーと音を鳴らした。つまり、強い放射線濃度を示している。
地上の木の葉や水溜りには特に放射性物質が蓄積しやすいとのこと。
そんな我々はそんなマキシムと少しだけ会話をした。「ここはフクシマの30年後の姿だ」っていう彼の言葉は、なかなか印象深かった。
やっぱりウクライナ人にとっても福島はそれなりに大きな存在なのかもしれない。
そんなわけでバスに乗り込み、我々は帰途に着く。ツアーは何事もなく無事終了した。
帰りに見た夕焼けはめちゃくちゃ綺麗だったな。
あと、行きがけでパスポートチェックとかされたチェックポイントで、またバスを降ろされて何事かと思ったらよくわからん機械を通らされた。
どの程度被曝しているかを調べるらしい。多分。
で、結果として何mSv被曝したか・・・
最初の方にもらった例のマップに書いてもらったんだが、そのマップを失くしてしまって忘れてしまった。また出てきたら言います・・・。
けどめっちゃ少なかったよ。1mSVも被曝してなかったはず。まあそんなもんなんですよ実際、福島だってそう。
飛行機に乗ったりレントゲン検査受けたりしたときの方が被曝します。オゾンホールのポッカリ開いたオーストラリアに行く方がやばいんじゃないかな。
というわけでまたお会いしましょう。また。