ソビエト女のファッションだ
さて本日も、「月刊ロシア」のお時間がやってまいりました…。
いつのまにそんなものが発刊されたんですか編集長
「ぜひとも月刊ムーのような胡散臭さを目指したいものです。」
…とはいえ、ちゃんと一応毎回下調べもしてあれこれ記事にしているのでそれなりの情報源やソースはきちんとあるつもりですが、時々酔っ払った勢いや深夜テンションなどの気持ちだけで書いているという側面も多々あるので、ここのブログに書いていることを100パーセント鵜呑みにされると非常に困ります。参考程度にとどめておくれ。アンサイクロペディア並みに嘘八百が並べ立ててあり、客観性には乏しい。
特に歴史認識の面に関しては韓国政府ですら腰を抜かすほど中立性を著しく欠いており、卒論の参考文献などに使えばあなたは間違いなく落第しますし、そちらの大学の教授陣が僕に総出で嫌がらせをしてきます。やめとくれ。ご遠慮ください。
さて。それでは今回も正直あまりスポットライトの当たらない話題についてお話ししましょう。
ソビエト女性のファッションについてです。
そもそも彼女たちが普段どんな格好をしていたか皆さんは想像がつくかしら。
スラヴ人とはいえ民族衣装なんか着ているわけじゃない。
無論、ソ連だからと言って皆が軍服や、中国や北朝鮮のような人民服を着ていたってわけでもない(まぁ、みんな似たり寄ったりな服を着ていたという点ではもはや一緒なのかもしれないが。。。)
それでもやはりソ連でファッションという概念は当初かなり軽視されていたのです。贅沢=ブルジョワはそもそもの敵ですから。
軍事一党独裁国家ソビエトにおいて衣服は二の次である。日常に不自由無ければデザインなんてさ、と思っている人も非常に多かった。
とにかく武器、武器、武器を生産するべく、すべてはお国のため、民需は全部後回しで、ロケット工場や軍需工場ばかりがフル稼働している有様でしたので、民需製品は常に品不足状態。
トイレットペーパーですら自国では生産することもままならない状況である(そんな国が何故世界で初めての有人宇宙飛行を成し遂げたのやら。。。)。
年から年中、戦時中みたいな国でした。
そして、そんな彼らの服のデザインを手がけるのも全て国営企業のお仕事。服を製作するのは政府の一部署にすぎません。 分かりやすい例えで言えば日本で服を作るメーカーがユニクロだけしか存在しない感じ。
おっとこれ以上はいけない。ユニクロの悪口はここまでだ。ユニクロは立派な資本主義者です。間違いない。(だからなんだってんだ)
でも確かに我々もアウターなんかを全部こういうところで揃えちまうと、街中で似たような服を着た人と出会ってしまう率が若干高くなるでしょう?
最近のユニクロのデザインは実際なかなかシャレてるし、頑張ってるし、なんせ価格が安い。あれこれブランドを考えるよりずっと効率的であるのは間違いない。
服やファッションに対して興味もこだわりも抱いてない人にはこれ以上ないほどの助け舟になるだろう。品質だって悪くないのだから。
しかしメイドインチャイナによる大量生産ゆえに他者との差別化は難しくなるし、全部をそこで揃えようとすれば、どうしても「あの人、ダサいよ」などと陰で指を差されがち。
日本人みたいな見た目(服装)やブランドをやたら気にする民族からの風当たりというのは強い。
つまりソ連という国では常時こんな感じだ。
どこへ行けども似通った服装の人間が行き交う。それでも、お互い見慣れてるし何とも思わないようだが。(ほんまかいな)
ダサいなどと言ってらんない。
だって買うところがユニクロしかないんだもん。。。
しまむらとGUとユニクロが覇権を争う日本の田舎より悲しい現実だ。
最近じゃ無印良品も頑張ってるし何より質がいいので第四の勢力と目されている(長くなるのでこの手の話はまた今度)。
そんな状況でも、なんとか工夫して他人とは違った個性溢れるおしゃれをしたいと思うのが女性の気持ちです。これに国境などない。万国共通です。どんなに高い鉄のカーテンでもやすやすと乗り越えるのだ。
そこで彼女たちは少々高価でも海外(西側)から輸入されてきた衣服やブランド品を手に入れようと奔走したのです。男性の目がどうだとかモテたいとかなんかじゃなくて、女性は常に可愛くありたいもの。鏡に映る可愛い自分を見て安心したいのです。
ソビエトの男性にはこんな女性の気持ちってのはなかなか理解されなかったらしいが。
自国では資本主義を否定しているので、みんなが好き勝手作って売るわけにはいかないけど、輸入されたものを買うのはセーフだったようで(もちろん売るには当局の許可が必要)。
でも品不足のソ連じゃそもそも国産の衣服を買うのだって一苦労だ。ダサいから輸入物の服が欲しいと駄々こねて喚いても、ソ連で輸入品を買うのは至難の技。
自国製品を買うのだってしんどいのに海外製品なんて夢のまた夢だろう。。。
さて、もはやソ連の風物詩とまでなったのはこの見事なまでの行列ですね。
一体何故こんなアホみたいな行列があちこちにできたのかというと、最初にお話ししました通り、兵器の作りすぎで国民の生活必需品の生産は全て後回しにされていたので、慢性的な品不足が生じていたからです。
共産主義国なので当然働いてきちんとノルマを果たせば、みんなお金は平等に与えられていましたが、いくらお金があっても欲しいものが手に入らないんじゃどうしようもないよ。
ルーブル紙幣?そんなハイパーインフレ状態のマルク紙幣みたいな紙屑なんかより、着実にモノが手に入る配給切符を寄越せ。
モスクワやレニングラード(サンクトペテルブルク)のような大都市へ住もうにも土地や物件は余っておらず、家はそもそも購入できない、マンションにも入居できない、そのせいで酷いあばら家に住む…なんて事案も多くありました。
結局お金を平等に持ってても、手に入る物の質や量によって格差が生まれる。
これが共産主義国の実態です。所得がいくら平等でも、どうにもならんもんはならん。
完全無欠の共産主義なんて永遠に成し得ないのがお分かりいただけるでしょう。
この長い長い行列、初期の頃は順番がごちゃ混ぜになったり横入りが生まれたりと混乱もさぞ酷かったのでしょうが、これも徐々にソビエト式に洗練されていきます。
並んでいる最中にも一旦列を抜けられるように(だって何時間と待つ羽目になるので)、人々は自分の一個前に並んでいる人に今並んでいる順番を聞いて、その次の番号をボールペンやサインペンで手のひらに書き込みます。
後ろも同じ。みんな手に自分の番号を書いて、順番が近づくまで他所で他の用事を済ませたりしていたそうですよ。
さて、ようやく自分の番が回ってきた、というところですが…お店の中に並んだ品物を見渡しますが、この時、並んだ順番が遅かったほど店頭に残っている品物の数は当然少なくなっています。
もしくはせっかく並んでいたのに何一つ物が残っていなかったとか。
ソ連はあれです、やっぱコミケです。日常が数少ない同人誌の奪い合い。
話が徐々に脱線気味ですが、そんな風にせっかく海外ブランドを手に入れようと意気込んでお店に並んでも、早く並ばなくちゃいいものはなかなか手に入らない。
ちょっとズルいけどお店の店主と事前に仲良くなっておくことで「○○日に海外製品が入荷するよ」などという情報を事前に得ることができ、その店の前にいち早く並んでしまう、なんていう手法もあったりしたそうです。
ちなみにソ連では、街中で行列を見かけたらとりあえず何を売っているか分からなくとも並べという教えがあったので、みんなそんなスタンスで生きていました。
並んでいれば何かいいものが買えるかも〜くらいの気持ちですよね。
今日は絶対にこれを手に入れるぞ!と意気込むほど手に入らなかった時のショックは大きくなるので、ロシア人のこの姿勢は我々も見習っていきたいものです。
もちろん官僚のようなエリート男性と付き合うとか結婚することで海外ブランドを手に入れるハードルもぐっと下がったそうですが…なんかそれは、もう裏技というかなんというか〜なので省略。
特権階級(ノーメンクラトゥーラ)というか、赤い貴族とでもいうべきか。
共産主義の矛盾である。
さて、海外ブランドもなかなか手に入らない。じゃあどうするのか。
自分で作ってしまいましょう。
当然に、このような考えに至ったわけです。
自分で作って自分で楽しむ分には特に規制もありませんでした。
布地や糸はまだ既製品に比べて手に入りやすかったのです。
東欧の布地はレトロ感あってとても可愛い。ワンピースなんかは簡単に作れるという理由もあってかかなり人気でバリエーションも豊富でした。
そもそも書店などに足を運ぶと衣服のファッション専門誌や、型紙が付いている本まで売っていたほど。
70年代から80年代にもなるとソ連政府がいかにも自分で作ることを推奨しているのかと思ってしまうほど店頭に並んでいる本や雑誌の種類も非常に多くなっていきました。
もしくは衣服を作れるメーカーや専門家に布地を渡して直接依頼し作ってもらう、という手段もありました。オーダーメイドというやつです。
もちろんそれなりに高額な出費にはなってしまいますが、他の人とは異なったデザインのコートを一着持っているだけでもその優越感は凄まじいもの。
文豪ゴーゴリの『外套』という本にもなるくらいロシア人のオリジナルの外套=コートに対する思い入れは強い。
確かに冬の長いソ連でアウターは特にこだわるべき一品です。異論はない。
さてここまで述べた通り、自分で作るのもいいし輸入品を着こなすのもいいのですが、実際に品質だけで言うとグムといったモスクワのデパートに並んでいるソ連製の衣服の方が、デザインの品揃えは最悪だけれど何年も着回すことができて、とっても丈夫だったそうです。
ソ連製の衣服に関してはダサいだとか種類が少ないだとか不満や悪口が多いけど、良い点もたくさんありました。
一応念のために擁護しておきますね。
ごわごわするやつばっかだけど。特に綿のストッキングは丈夫だけど不評だったりとか。国民すべてに供給するためにどんな衣服のサイズもきっちりとした規格が定められてたりとか…ウール製の制服は汗を吸い込んで臭いとか、とにかくダサいとか(あー結局悪口だ)。
それではソ連時代の87年から89年頃に雑誌で紹介されていたオシャレで可愛いお洋服を紹介していきましょう。
この頃のソ連は崩壊も間近に迫っていてゴルバチョフによる改革=ペレストロイカも進み様々な規制が取り払われ、おかげさんでソ連人民のオシャレ感覚も飛躍的に進歩しました。
おまけにはなりますが最後はソ連の子供達の制服を紹介して終わります。
こちらはもちろん全てがソ連国産の制服。
みんな一緒だけど、デザインは古風で可愛らしいし、なんだかんだ言っても人気です。
こういう制服は上の子のお下がりを貰うことが多かったそうですが。
ちなみにソ連エストニア共和国(91年にソ連から独立)なんかでは三年に一回ほど新品と交換になったりしたそうで、連邦の中でも共和国によって待遇が違ったりしました。
上の制服の原型は帝政ロシア時代からありますし、もちろん現在のロシアでも着られているというので大変息の長いデザイン。
ピオネール青年団は、世界がイギリス発祥のボーイスカウト連盟に突き動かされていく中、ソ連独自に発展した組織で、やがては東ドイツなどの東側同盟諸国の間でも広まりました。
ボーイスカウトと基本的な活動内容は一緒でも、入団するためにはある程度の成績優秀者でなければならないだとか、年齢制限があったりとか、いろんなハードルがあったとか。
式典で行進したりサマーキャンプで共産主義思想を教え込まれること自体がというより、胸元に輝く彼らの赤いスカーフやレーニンの肖像画が刻まれた赤いバッジこそが少年少女たちの心を何よりもくすぐったのです。
クラスでピオネールに所属していた子供は、周囲の子供たちから渇望の目で見られていました。
いかがでしたか。ソ連の衣服に対するイメージが変わってくれれば自分としても本望です。
それでは次の機会にまたお会いしましょう。
欧州遠征録【5】ローテンブルクの中世犯罪博物館。
尺の関係もあるので余談は極力省きたい。
毎回長ったらしくてとても恐縮です。
ここ最近の動向ですが、やっと引っ越しが完了して5年間住んだ関西にさよならしたぞ〜と思いきや、今度は何かと言うと公務員試験の勉強にあてがわれている。
自分でも驚いたが勉強するのは案外楽しいのであまり苦ではないが、こうやって合間にブログを書くのは本当に良い息抜きになっている。
2016年9月12日。我々はディンケルスビュールで心地の良い朝を迎えた。
昨日の疲れがまだ残っているものの5時ごろすぐに目を覚ます。旅行に来てからというものやけに早く目覚めるのが常態化してしまっていた。
これが時差ボケってやつか???
それにしても今日この街を朝7時半には出なくちゃいけないとは、おかしいな。。。
だがディンケルスビュールからローテンブルクまでの電車なんて無い。
ローテンブルク行きのバスは朝7時41分のやつ、その次は10時半…。
この辺の交通の便の悪さがディンケルスビュールに観光客が少ない理由なのは明らかだ。
ローテンブルクを午前中で十分に観光して夜までにドレスデンに到着したいなら当然、朝7時半のバスに乗るしかないってわけだ。
ローテンブルクからドレスデンまではグーグル先生の乗り換え案内だと5時間近くかかるという噂。
おい誰だ、旅行日程を組んだの。
ドイツは思ったより広いっすね。それが今回の旅の教訓でございましてね。
訪れる際には余裕を持ったスケジュールをお願いします。
6時ごろに朝ごはんを食べるため一階に降りる。
こぢんまりとした自宅の食堂みたいな小さな部屋で、二人がけのテーブルが二つか三つほどしかない。一応ビュッフェ形式なので近くに並んだトレーの上からパンやハム、チーズを自由に取る。
給仕はおばさま一人だけ。コーヒーか紅茶かを選べたので紅茶を。
・・・まるで貴族にでもなったかのような気分を存分に味わう。
ああ〜〜今日がディンケルスビュール最終日ねえ、、、
昨日の魔法にかけられたような余韻はいまだに消えない。できればディンケルスビュールじゃなくてもいいからローテンブルクあたりでもう一泊したいくらいよ。
もはやロマンチック街道上で死にたいまである。
部屋を出ようと荷造りしている間にも聖ゲオルグ教会の鐘が近くで打ち鳴らされていた。
ゴンゴンゴンゴン
しかし、すごい音。こんなに耳元で鳴らさなくても。
(カーテンを開けたらでかい教会が見える見える…)
そうか教会の真ん前なんだよなぁこのホテル。。。
脳内に直接響いてくるこの音で街の人たちはみんな目を覚ますのだろう。
まだ鳴り止まぬ鐘の音を聞きつつ、人通りのない街路をバックパッカーなる二人の日本人がトボトボ歩く。
ところで朝の街は朝の街で大変趣があっていいものですね。朝日が城壁を美しく染めているんですよ、昨日もパシャパシャ撮ったばかりだけどこの日もカメラを手放すことはできませんでした。
城壁を越え、バス停に向かうとバスは時間通りちゃんとやってきました。
ちょっといかつい強面のおっちゃん運転手にお金を払うと面倒臭そうにしながらも切符くれました。
バスに乗っていたのは我々二人だけで、ある意味貸切状態。
そしてもちろん、運転は荒い。
荒すぎる。
棒に掴まってなきゃ余裕でぶっ飛んでガラス突き破って、死にます。
そしたらSAYONARA。
シートベルト?そんなもん、はじめからねぇヶド?
なんでヨーロッパに来て初めに死を悟る場所がバスなんだ、おかしいぞ??
(凄まじいブレーキで飛ばされかける我々)
↑↑運転手↑↑
おい運転手。
そもそも海外に来てまで絶叫アトラクションに乗りたかったわけじゃない。
アトラクションってのは安全が担保されて初めてアトラクションの体を成すから、安全の保証されてないもんなどアトラクションとは呼ばないんだよ。(正論)
そんなわけで数十分後、悪夢のバスは見知らぬ町のバス停に停車し、下車し乗り換えのために他のバスを待つことに。
次のバスも時間通り停車しましたね〜。
平日のこの時間帯とあって利用客はやはり我々以外誰もいません。
だから今回も大きな車体は、またもや二人の貸切状態。
貸切だからって一体なんのメリットが〜〜って感じする。
さて、乗り込んだバスもやっぱりアクセル全開、すっ飛ばしで走る。
まあでも、流石に慣れた。こうやってドイツに住む人間はアウトバーンに適応していく。
危険な民族。ナチズムより危険。
さて、ひとしきり揺さぶられ、どっかのバス停でまた乗り換えのために降車します。
バス停でうろうろしていた我々を気に留めたのか、先程降りたばかりのバスから運転手のおじさんがわざわざ降りてきて、
「あんたたち、どこに行きたいんだ?」
と聞いてきたので、ローテンブルクに、と答えます。
「ローテンブルク行きはあっちのバス停から発車だよ〜」と親切に教えてくれて、運転手はバスに乗り込み、去っていった。
なんと親切!
昨日のノイシュバンシュタイン城の奴らとは違うぜ!
素直に感動しました。そして言われた通りに待っているとローテンブルク行きのバスがやってくる。
数十分揺られたのち、ようやくローテンブルクに到着した。
城壁がとても大きいし、観光客らしい人の数からしても街の規模の大きさが伺える。
目の前にそびえる城門をくぐります。
いかにも古そうな、いかにもな城壁。上には見張り台が。
くぐりました。
そして門を抜けたところで真横を見つめると、まさかの、その城壁を登るための階段とかがあったりする。いやに古ぼけた階段だ。
え、まさか、この城壁、登れるの?
登らない手はないでしょう。
頭の中の小学生が騒いでいる。
登ります。
古ぼけた木とレンガなどで形作られた何百年という年季の入った階段を上がって、街を囲む城壁上の通路をぶらぶら歩くことに。
櫓の上からはオレンジ色の美しい家の屋根が見渡せます。どの建物も非常に古めかしい。
長い通路みたいになっていて、横幅はギリギリ人が二人横一列で歩けるくらいの狭さ。
向こう側から歩いてきた女性二人組のアジア系の観光客と途中出くわしたりもします。
頑張れば街をぐるりと一周できてしまうのだが、そんな時間はない。
正午過ぎくらいまでに街を一通り観光して、ドレスデン行きの電車に乗り込まねばならないのだ。ゆっくりすることもかなわない旅。誰だよこんな旅行計画立てたやつ。
というわけで一通り物見櫓を満喫したら再び階段を駆け下りて、ようやく市街地に入場。
いやー旧市街ですね。ほんとに。
市内の観光は一旦置いといて、ひとまず本日の目玉であるローテンブルクの中世犯罪博物館へ向かう。
この博物館はやたらと日本人観光客が多いとか。
だって日本人は大好きだよね、魔女狩り。
おかげさまで博物館に入るなり、目に飛び込んできたのはドイツ語と英語の説明書きに並んで、日本語の説明書きだ。すでに訪れる日本人の数の多さを物語っている。
中世の時代に使用された拷問器具が山のように軒を連ねておりました。そもそもこの博物館の建物自体、外観もそうだが中身も大変古めかしく、当時の牢獄をそのまま博物館に改装したんだとかなんとか。
地下に降りる途中、生々しい地下牢の跡が残されておりました。
石造りの地下牢に小さい天窓から光が差し込む。そしてそんな地下牢の真ん中には拷問用のトゲトゲのついた痛そうな椅子が。
座ると痔になりそう。
慢性的に痔になる筆者もこれには度肝を抜かる。
これじゃあ何回痔になっても敵わん。。。
ともかく、ここに縛り付けられた囚人は目を覆いたくなるような拷問によって悲痛な叫び声をあげていたんでしょう。一瞬でケツの穴がいっぱい増えたことでしょう。悲惨すぎる。
棘一つない便座に座って痔になる我々は恵まれていますね・・・。(><)
ガラスケースに飾られるかつての拷問器具はどれもこれも痛そうですが、特に有名なのはこちらですね。光の反射で上手く撮影できませんでしたが、こちら世界に数点しか現存しないという貴重な拷問器具「鉄の処女(アイアン・メイデン)」。
説明するのもおこがましいですね、ご存知中には鉄針がびっしり、閉じると当然中にぶっこまれた魔女は蜂の巣に。
実際には使われてないらしいけど。
いやだって。。。こんなん、拷問ちゃうやん、、、
ほら、拷問には拷問の趣旨とかそういうのがあってぇ、すぐ殺しちゃったらダメじゃん。。。?
被告を拷問して自白に導くのが魔女裁判の最たる目的なんですから。
最初は散々に拷問して「はいそうです、私が魔女です😭」と、自白させるの。
大陸における魔女の処刑方法は火あぶりが基本でしたがイギリスでは首吊り等も積極的にやっていったのだとか。
魔女裁判ってのは一種の集団ヒステリー。そんな当時の一大ムーブメントの火付け役になったのはまさに本でした。
当時は活版印刷術が生まれて100年経つか経たないかの時代。
グーテンベルクの活版印刷術は革命をもたらし、それまで非常に高価で手の届かなかった本や聖書が比較的安価に(それでも十分に高価だったが)民衆の中に浸透していく時代でしたが、たくさんの書籍が世に出回ってくると、当然、今の時代でいうベストセラーなるものも生まれてくるわけですよ。
ええ、そうです、要は、その時代のベストセラーの本の中に、日常に魔女が潜むというデマを書き込んだ宗教裁判官がいた。
デマをデマと判断するだけの冷静な知識なんて民衆にはありませんから、すぐに信じちゃうわけです。
当時の宗教裁判官ハインリヒ・クラーマーが書いた「魔女に与える鉄槌」という本の与えた影響はとくに計り知れないと言われている。
そもそも魔女狩りという行為自体は、けっこう昔からあって。1400年ごろの本の挿絵には箒に跨る魔女、いわゆる魔女のステレオタイプが登場しております。
妖術を使ったと噂された女(男)を捕まえて殺すような行為は散発的に行われていました。それを今度は組織的に、大規模に行ったのが16世紀以降吹き荒れた狂気の魔女裁判だったわけです。
ヨーロッパの大陸中あちこちの村や街で行われ、イギリスでもアイルランドでも、場所を変えて発見されたばかりの新大陸アメリカでも、魔女狩りは当然のように行われました。
ところで、一番好きだった展示物をご紹介。
こちらの仮面は、家畜や不気味な人間の顔をかたどった鉄のお面です。
”汚名のマスク”などという展示名が記載されている。
魔女狩りとの直接的な関係があったかは不明ですが妙な噂を流したり、公衆の面前で下品な言葉を連呼した者は特にこのマスクを付け、鎖で街頭に繋がれて晒し者にされる、とかいう刑罰があったとかなんとか。
上の写真で舌が出ているのは、その人物が”おしゃべり”である証。下の写真の豚のマスクなんて息をするたびピーピー音が鳴るらしい(真偽のほどは不明)。
他にも、これなんてどうですか。格好良くないすか。
これは死刑執行人のマントです。いかにもファンタジーに出てきそうな。。。
中世ドイツには厨二病が蔓延しておりました。
もはや当時流行っていた黒死病(ペスト)に次ぐ救い難い病気だ。
魔女狩りでは男性も数多く犠牲になったが、女性蔑視の風潮が魔女狩りの根底にあり、かつ、拍車をかけたのは確かだろう。
さて拷問博物館の展示にはひどくお腹いっぱいになったので、一旦博物館の中庭に出ましょう。
またしても可愛いドイツ猫に遭遇。よく写真を撮らせてくれます。ここの館長か?
毛並みが美しくて本当に可愛いし、和みますね〜。
んで、中庭を抜けると同じ博物館の別の建物に入ります。
あとちょっとだけ展示が続くらしい。やれやれ、せっかく猫で和んだところだが見てやるか〜という軽い気持ちで入ると…
ごめんなさい。俺が悪かった。ありがとうございました。
他には特にこれといって珍しい展示もないので。もう他にいうこともないかな。
そしてようやく博物館を出る。中央の市庁舎に面した大きな広場まで戻ってきました。
噴水のそばまで歩いてくると突然、同行者のTくんが叫んだ。
「畜生、うんこをかけられて動けない」
うんこ、、、?
よく見たら肩に白いものが。どうやら鳥の糞爆撃を食らったらしい。
その光景にひとしきり爆笑して、どうやら彼は荷物番をしてくれるというから市内を一人でぶらぶらすることに。
おみやげ屋さんでいろいろなものを買ったりもする。
さて、犯罪博物館という今回の最大の目的を達成し、少し手持ち無沙汰になったが、こういう中世都市に来てやることと言ったら、やはりあれ。
店の軒先にぶら下がった看板の写真コーナーのお時間です。(今回限り)
フラクトゥールっていうんですよね、こういうドイツの伝統的な独特のアルファベットのこと。
いろんなデザインがあって 面白い。これって職人さんが一つ一つ金属を加工して手作りしてるすごい看板なんです。細やかな装飾が本当に綺麗ですね。一体どうやって作っているんだろうか。誰か工房見学のツアーとかやってくれんかな。
看板巡りもひと段落したところでお昼ご飯を堪能する。
屋外で味わうお昼ご飯は最高だ。
ザワークラウト(キャベツの酢漬け)が異常にドカンと盛られたブルストはワインにとても合います。いやわからんけど。実はビールの方が合うかも知れん。酔えりゃなんでもいいんだ。
テラス席からの眺めもまた…
う、、、うげえ。。。
本当にこの世の全てを手に入れたような感じ。なんだろうなこの絶景。
ドイツの何が好きって、やっぱり何度も言ってる気がするが、この道の清潔感ですね。日本にいるとすっごく当たり前のことなんですが、そんな当たり前が実はすごく貴重なんだとこの旅で気づかされました。
あと窓に飾られた花だって、どの街でも当たり前になってて、すごく綺麗。
手入れが大変そうだけどすごくこだわってる。
ローテンブルクに来て本当によかった。
さて、残念ですが…この辺でこの中世都市ともお別れしなければならない。さようなら。またいつか。
このあと電車でドイツの端にある街・ドレスデンに向かうのですが、ここからドレスデンまでの旅の行程を書くと非常に長くなりそうなので今回はこの辺で切り上げたい。
懸命な判断。
ではではまた次回!
こうだったらよかったのに。こうなればよかったのに。大好きなミュージカル、ララランドと”シェルブールの雨傘”の話
いや〜〜〜〜〜ララランドなぁ。。。 公開当初は感想書くほどの価値もない映画と勝手に切り捨てていたのだが、最近改めて観直したことで評価が180度ぐるりと変わってしまった珍しい映画だ。
微妙に感じても、なぜか頭の片隅に引っかかって記憶に残り続けていた妙な映画だったが、まさか、もう一度観たことで大好きな映画に変わるなんて…。
こんな映画、なかなかない
最近ここのブログは映画レビューに一歩ずつズルズルと足を引き摺り込まれていきそうな勢いだ。そのせいで別シリーズ・欧州遠征録の更新の方が、どうにも滞りがちになりそうなんだが許してほしい。
次はローテンブルクの拷問博物館の話をするからどうにか楽しみに待っててくれ。
みんな好きだろ?暴力とか中世とか魔女狩りとかな。
さて、この前も地上波でも放送していたらしいララランドですが。しかしな、金ローはCMを挟み込まれるばかりでろくに集中もできんから面倒臭くて実は観ていなかったのだ。
だが、幸いにも我々にはアマゾンプライムという伝家の宝刀がある。
現在そちらで絶賛無料公開中だ。映画好きで時間を持て余した基本的な人権すらあるはずもない無職ならば加入しない手はない。
もちろん普段が忙しいそこのあなたも。俺はアマプラのせいでここ最近はずっと映画ざんまいの日々を送っている。ほとんど毎日一本ずつ観ているのではないかな。
しかし過去に一度観た映画をもう一度見るのってなんか苦痛なんですよ。なんとなく。
苦痛ってか…なんてかほら、一度観た映画をもっかい観るくらいなら新しい映画を観て見識を増やそうだとか、そんな感じになるわけです。
だってほら、
人生における大事なことの8割は映画で学べるから。
どっかのお偉いさんもそんなことを言っているよ。
しかし人間ってのは、どんなに頑張っても昔観た内容なんてすぐ忘れちゃうもんだなぁ。
そもそも俺の脳みそは近頃ひどく劣化しているの。この前もマッドマックスのことをベイマックスと言い間違えて大変なことになってしまった。
つまり
ベイマックス・怒りのデスロード
こいつは強そうだ。
この言い間違いで完全にこいつはアホだなぁと思われてしまった、爆走する真っ白な巨体なんて子供が泣く。
そんな余談はどうでもいい。
とにかく最近ひどく言葉が思い出せず、なかなか出てこない。身体的な老化はいよいよ脳にまで達したと言える。
有名人の名前もろくに捻り出せない低脳チンパンジーが2年前、3年前、それより前の映画の内容なんてまともに覚えていられるわけがないのだ。
だから次々と新しい映画を見るのではなく、たまには振り返って昔観た映画をもう一度落ち着いて観てみようぜ、と今更になりようやくアマプラにてララランドを観てみようという決断に至ったのだ。
繰り返しにはなるがララランドを初めて劇場で観た時は、どうも好きになれなかった。
やはりどんな映画にでも言えることなんだが、先入観というのはあらかじめ捨ててからスクリーンに臨むべき、とひどく痛感したのは皮肉にもこの映画が最初だった。
楽しげに踊っている二人。夕闇に彩られる美しい情景。
予告で見たことのあるこれらの印象が、おそらくこの映画を、きっと幸せいっぱいな楽しいミュージカル映画として連想させたのだろう。
先入観というのは一種の期待に他ならない。
心のどこかでそうなって欲しいと思ってたのに、それが裏切られたというような感じだ。
期待が大きいほど裏切られたと思い込むのが人間の性。
劇場を出た後、一緒に観に行ってくれたTwitterの友人(フォロワー)に愚痴など散々吐いたものだよ。。。
なんかなぁ、二人の関係がこんな風に終わっちゃうなんて聞いてないぜ〜〜〜5年後ってなんだ。重要な過程を吹っ飛ばしてその結末はなさすぎる。せめて過程を描いて欲しいよ。。。
とまぁ、当時の俺はまさにそんなことを思っていたのだが、まさに愚の骨頂。
この無知さ加減と不満の溜まりようは人生に未熟な自分をまさしく物語っていたのである。
人との関わり方や接し方、生き方とかを学んだ今じゃ少なくともこんな感想にはならない。
だって劇中の雰囲気から漂ってくる微かな予感を拾い上げれば二人がうまくいかないのは明確なんだ。
夢がようやく叶いそうだなと思ったところで突然5年後とか、そんな風に展開を飛ばしたのは、そこを描く必要はないから。ダラダラ間延びするし。意図的に省いたんだろう。
描く意味はない。
当時の自分はアホだから、ミアとセブの二人の間に漂っていた微妙で不穏な先行きの暗い空気感を感じ取ることができなかったらしい。
映画の中の二人に蔓延っていた若かりし頃の過ちというか未熟さは、客席にぽつんと座っている自分にも当てはまっていたのだ。
ラストの、ミアがセブ以外の別の男性と腕を組みながら店に入るシーン。
そこからの展開が圧巻だ。
ステージの上でピアノを弾くセブを目にした瞬間、初めて出会った時のことが走馬灯のように彼女の頭の中を駆け回る。
一瞬何が起こったか分からなくなる。俺も初見ではここで酷く裏切られた気分になったが、でもそれは、こんなにも愛していた彼というものを改めて強く意識した瞬間。
彼との関係を左右した過去の分岐点の数々。選択肢。
今だったらこうすればよかったのに…なんて、あの時に選ぶべきだった選択は今ならちゃんと正解が分かる。はっきりしているのに。あの時は未熟だったから、冷静になれなかったから、何一つ分からなかったんだ。
こうだったらよかったのに。
こうだったら、二人が今も肩を並べて座っていたのかもしれないのに。
今、彼女の隣にいるのは愛した人ではなくて愛する人。
人生は選択の連続だが、でも今までの自分の選択は誤っていた、なんて考えたくはないんだよ。
あの時の選択が間違っていると言ったら、今の自分の存在の否定につながってしまうから。
だが、それでも人っていうのはそれでも後悔するかのように、つい思い返してしまう。
皆さんにも、あの時の選択は誤っていたからもう一度選択肢の前に立ってやり直してみたいだとか、そんな人生における重要な分岐点はいくつもあったでしょう。
この映画を見た瞬間からふと脳裏に浮かんだ一つのミュージカル映画がある。
シェルブールの雨傘、という不朽の名作だ。
これはフランスの1963年のミュージカル映画だが主役のカトリーヌ・ドヌーヴ演じるジュヌヴィエーヴについつい惚れ込んでしまう。
よく考えてみりゃ、ひどい女なのにな。
1957年、フランスの港町・シェルブールで傘屋を営む母親とその娘ジュヌヴィエーヴは一人の自動車整備工の男性ギィと恋に落ちるが、彼との結婚に母親は強く反対していた。
彼の夢は自身のガソリンスタンド・自動車整備工場を持つこと。
だが、それから間も無くしてギィは徴兵によりフランスの植民地・アルジェリアで起きた戦争に行くことに。
離れ離れになったことでギィとジュヌヴィエーヴの関係には徐々に亀裂が走っていくことに。
遠距離恋愛ってのはいつの時代もうまくいかないもんだよ。
ある日、ギィとの赤ん坊を身ごもった事実を知ることになったジュヌヴィエーヴは宝石商の男性に出会う。宝石商で仕事もできる裕福な彼と一人娘が結婚することには彼女の母親も非常に前向きだった。
もちろん最初は意地でもギィとの結婚に固執していた身重のジュヌヴィエーヴであったが、彼の優しさや一途さに惚れ込み、やがては結婚を決意してシェルブールを離れることになる。
そして、かつての恋人ギィが復員してシェルブールに戻った時、そこにはすでに彼女の姿などない。ギィは悲しみにくれて自暴自棄になる。
働いていた自動車整備工場も辞め、著しく心が荒みきっていた彼を優しく気遣ったのが昔からの友人マドレーヌだった。
次第に彼女の優しさに気づき、ギィはマドレーヌとの結婚を決意する。
そしてクライマックス。
ジュヌヴィエーヴの運転する車が久々にシェルブールを走り、給油のために一軒のガソリンスタンドに立ち寄る。彼女は小さい娘を一緒に乗せていた。
そんな雪の中のガソリンスタンドから一人、そっと姿を見せたのは、かつての恋人だったギィ。
こんなところで会えるとは微塵も思わなかったのに。。。
「あなたは、今幸せ?」と尋ねる彼女に、彼は一言「幸せだよ」と告げる。
ギィにも奥さんと子供がいるのだ。
それに、自分のガソリンスタンドを持つという夢を叶えている。
事務所。そばではキラキラと光るクリスマスツリー。
「(クリスマスだし)遅くなるといけないから」
ギィが車に乗るよう彼女に勧めて、二人は別れを告げる。
この名シーン、ララランドのクライマックスに似ているなぁと感じた。
そもそもララランドの中盤で、ミアがノートに「ジュヌヴィエーヴ」という名前を書き記し、カメラも、そんな彼女の文字をクローズアップしているのだ。
まさに”シェルブールの雨傘”を暗示するかのような演出。
この時点で二人の将来的な関係にはすでに陰りが見えていると言っても過言じゃない。
恋愛と愛情は違う。
恋は一時の気の迷い、なんて言い方もされるが本当に一時的なもんだ。
いつか、ふとしたことで相手の心が離れるのなら、それは恋だ。
恋ってのは相手と手を繋いでいる一方で、相手の足を踏みつけている関係だよ。
俺はいつもそう言っている。
足を踏みつけなくてもよくなったら、本当の愛になる。
出会ったばかりの恋人ってのは互いに信じあえなかったり、実はどこかで分かり合えなかったりするもの。だから相手と喧嘩して別れを告げられたりしても仕方ないじゃないか。
きっと二人の間に本物の愛情なんて存在しなかったんだからさ。それで裏切られたなんて思っちゃいけない。
ただ相手と上手く手を繋げなかっただけ。足だけ踏まれてりゃ誰でも逃げていくよ。
自分に無いものを相手は持ってるだとか見た目が好みだとか、たとえそんな部分に惹かれたとしても本当の愛情と思い込んじゃいけないよ。
恋は盲目なんて言うだろう、相手のダメなところも好きだと思い込めばこそ魅力に映るもんだ。
そして所詮、そんな脆い関係なんてさ、お互いの心がふっと離れた瞬間簡単に引き裂かれる。遠距離恋愛でお互いが上手くいかないのは愛がなくなるから。
それか、元々存在していなかったか。
だから恋と結婚は違う。
バンドマンのような格好いい男に恋してても、結局結婚するのは高校時代のなんてことない平凡な優しい友人、なんて話はよくある。
遠くにいても、いつでも互いのことを思いやったり支えたりして、会えなくてもどこかで必ず心が繋がっていた。そういうのが愛情だ。
だから遠距離恋愛ってのは、それが恋なのか愛なのかを測るリトマス試験紙なんです。
皆さんにシェルブールの雨傘の名セリフを紹介しよう。
ギィとの子供を身ごもったと知った孤独な主人公ジュヌヴィエーヴに母親が言った言葉だ。
「宝石商さんが、あなたのお腹に赤ちゃんがいるって知ってもあなたのことを愛すると言ってくれるのなら、それこそが本当の愛だわ」
宝石商はギィとの赤ちゃんを身ごもっていた彼女に、それでも好きだと伝える。
そんな一生懸命さにジュヌヴィエーヴは惹かれ、彼と結婚するのである。
そして彼女は女の子を生んだ。
ジュヌヴィエーヴはかつてこんなことをギィに言っていた。
「あなたとの赤ちゃん、女の子ならフランソワーズって名前にするわ」
そして時は流れて、クライマックスのガソリンスタンド。
夢を叶えたギィが、彼女の車に乗っている子供の名前を尋ねると、ジュヌヴィエーヴは「フランソワーズよ…」と呟いた。
こんなにも胸が苦しくなるシーンはなかなかあるまい。
それだけじゃない。一方で、ギィとマドレーヌの間に生まれた男の子の名前は「フランソワ」なのだ。
二人の間で交わされた約束は、二人の子供の名前として残っている。
二人の心に刻まれた愛は、まだ完全には消えていなかった。。。
ララランドのクライマックスでも最後、8ミリフィルムで二人の幸せな結婚生活が映し出される名シーンがある。
映像に映る二人の間には小さな子供もいる。
こうなればよかったのに。という彼の想いが可視化されているのだ。
だが、そんな彼の想いも虚しくフィルムは途切れて、カメラは現実でピアノを弾くたった一人のセブを映し出す。
別の道を歩んだ二人が顔を合わせる瞬間はそんな風に残酷なのに、とても美しい。
シェルブールの雨傘では最後、ジュヌヴィエーヴがギィに「今幸せ?」と尋ねるが、別れて、それなりに年数を重ねた男女が再会した時に巻き起こる溜まりに溜まった感情を一言で端的に言い表せば、きっとこの言葉が最もしっくりくる。
胸が締め付けられるような鋭い切なさに襲われても相手を気にかける気持ちは、あの時と微塵も変わりはない。
むしろより強くなっているはずだ。
自分が好きになった人には、誰よりも幸せになってもらいたいから。
ミアが店を出る直前セブに微笑みかけるシーンも、やっぱり幸せそうに夢を追いかけている現在の彼を見れて安心し、そして自分たちはそれぞれ違う道を歩んでも歩み続けることができるんだと、そんな確信を抱く名シーンなのだ。
言葉にしなくても表情だけで相手の想いは伝わる。
そしてミアはかつて愛した彼に背を向ける。
決して振り返ることはなく、今愛する人と新しい道を歩んでいく。
非常に美しい映画だと実感するまでに時間がかかり過ぎてしまったララランドだが、今なら胸を張って好きだと言える。
いい加減にBlu-rayでも買おうかな。
なんにせよ、もう一度劇場で観たい名作映画であることには違いない。
それでは、このへんで。
メリーポピンズ
観る気は無かったし、ましてやレビューをあげることになるとも思わなかったこの映画だがまだ余韻が消えぬうちにと感想文をつらつら書くことにした。というか気づいたら書いてたわけよ。筆が動く動く。
最初に一言。最高と言わせてほしい。
しかし映画がどう最高だったとか、そんな分かりきったことをわざわざ書くのも気がひける。。。
感想文なんかそもそも下手なんですよ昔っから。
全然書けへん。ろくに書いた試しがない。
それに加えて俺の脳みそに眠っている語彙を捻り出すだけのおつむも足りねぇ、、、
なんだよ結局ありきたりな感想に終始してしまいそうだな、まぁ、それでも勘弁してくらさい。
メリーポピンズ・リターンズはここ最近ではなかなかの良作である。
音楽映画に弱すぎるというので完全にこれは俺による贔屓目の評価だが。
だって音楽がよすぎる、衣装がよすぎる(可愛すぎる)、時代背景がよすぎる(世界恐慌と言うと1929年か)ので完全に俺好み。
女優さんも非常にお綺麗。俺のイチ押しは主人公・マイケル・バンクスの姉、ジェーン・バンクス役のエミリー・モーティマー氏。この方はとっても可愛らしい。
仲良し兄弟のせいで、こっちの頬も緩みまくってしまう。
ちなみに本作は1964年に発表されたメリーポピンズ(初代)から約20年後のお話。
なのでこの主人公の兄弟は子供の頃メリーポピンズに教育を受けていたってわけだ。そして本作ではそんな父親になった彼マイケルの三人の子供達のもとに、全く老けないメリーポピンズが現れてストーリーが展開していく。
前作を観たのは中学の時だから、それからほとんど10年も経過しており正直その内容なんて全部頭から抜け落ちていた。
ああ〜〜〜もう一度ちゃんと観ておけばまた面白みも増えたんだろうなあ。
なので、前作を観なくても本作だけで十分楽しめるのだが、ぜひ前作をおさらいしてから観にいくことをオススメしたい。その方が百倍楽しめる。
音楽に関してはもう…聴くだけでウキウキしてしまう魔力があるわけで。完璧だ。
つまりディズニーランドに来たような気分だ。映画館がテーマパークになったかと錯覚してしまう。
1800円払うだけでインパできるんだぜ?(滅茶苦茶な謳い文句)
まぁ、べた褒めだけじゃあ感想としてはあれなのだが、しかし厳し目に見ても中盤の中だるみを除けばなかなか良かったんじゃないかな、と思う。
少し集中力が途切れてしまったのがね。
映画の世界に無事のめりこめていたかどうかの一つの判断材料、指標として自分の腕時計をちらりと確認するかしないか、というのがある。
今回はまだ終わらないのかなと、途中に一度ちらりと時計を見てしまったので自分的にはきっと映画の中盤、どうしてもやや退屈に感じたのかもしれない。
洋画は字幕の方がいいのは当然なんだが、字幕ばかり追ってると映像(たとえば役者の表情だとか舞台の作り込みだとか)を落ち着いて見ることができなくなっちゃうんですよね。ミュージカル映画は特に、歌詞ばかり追ってしまい、肝心の踊りなどをじっくり見れなくて少し疲れるのだ。
うーん、これは映画を観るときの本当に大きな悩みである。
かと言って日本語の歌なんか聴きたくはないしな。などと。
冒頭1時間の気持ちの高まりがちゃんと映画のラストまで持続できなかったのには、おそらく、いささか自分の心も荒んでいるからだろう。
そういうことにしておいてほしい。
おそらく純粋無垢な子供時代から何も変わらない綺麗な御心を持った紳士淑女の皆様におかれましては、さぞ映画を通じて魔法がかけられたことでしょう。。。そうであることを願いたいものです。
しかし、そんな荒んだ心を持つお方にこそこの映画を観るべきとオススメしたい。
かつてメリーポピンズに教えを乞うた主人公の二人の姉と弟の兄弟、とりわけ弟の方は結婚して奥さんを亡くし、子供の頃のような純粋に物を見る心をすっかり忘れてしまっている。
ここ最近のディズニーがよくやるノスタルジー攻勢だ。
社会という巨悪に呑まれて枯れ果てたつまらん大人となり、未だにのうのうと生き恥晒しながら生きている観客どもに子供時代のノスタルジーを突きつけて攻撃し、涙腺を破壊するのだ。非常にタチが悪い。俺だってそんな醜悪な観客の一人なんだよ。
だが、まんまとこの商法に負けてしまうのが人間の弱さだ。
人間は懐かしさには決して打ち勝つことができない。
だろう?俺だって高校に戻りたいってこの頃はますます思うね。大人の今の方が楽しいはずなのに、結局懐かしさにゃ抗えねえってわけさ。20歳中盤に差し掛かると大抵皆そんな境地に至るらしいよ。
子供という純粋で曇りのないレンズを通して主人公が大切なものに気づいていくという過程が楽しく描かれるストーリーだが、特に好きなのがアニメーションと実写の融合だ。俺が一番好きなディズニー映画は断然「魔法にかけられて」なのだが、本作でもあれに似た技術が非常によく活かされていたんじゃないかな。
全てがIf。この世界に入り込めたら楽しいだろうなあという気持ちだとか、逆さまになったら面白いだろうなあ、とかいう気持ちをメリーポピンズはさっと汲み取って、それを彼らの前で実現しちゃう。
夢なのか現実なのか分からない。
いや、そんなことはどうだっていいんだ。
とにかくIf。想像の大切さ、それを教えてくれるのです。
自分がこの映画を観ていてじーんと来ちまったのはここ一年、頑張ったつもりでも、やること為すこと何もかも全部が裏目に出て失敗ばかりで、自分という人間はどうしようもないなぁと思いつめていたためだろうか。
だから、ちょっと見方を変えてみるだけでいいんだよ、と、この映画がちょっとした救いをくれたような気がした。
そしたらきっと上手くいかなかったことももう少し上手くできるかも?
ただがむしゃらに頑張るだけじゃダメらしい、努力の方向性が間違ってたら、いくら努力しようったって上手くはいかない。だから子供の頃のような自由で純粋で柔軟な発想ってのは大事です。決して侮ることなかれ。
子供は大人の背中を見て育つし、大人の真似をして育つ。
お箸の持ち方とか、お喋りの仕方も全部。
子供の好き嫌いの原因は実は親にもあったりする。
そんな風に子供は親から大事なことを学ぶが、でも大人こそ子供からたくさんのことを学べるのです。というか学んでほしい。
歳をとるにつれて人間は保守的になるし頑固さに磨きがかかるもんだが、子供のような堅苦しくない自由で夢見がちな考え方もどこかできっとあなたの人生の役に立つはず。
視野の狭い人間は何をやってもダメ。
冗談も通じないつまらんおっさんになんてなっちゃいかんよ〜
上手くいかなくて煮詰まってて悩んでる人も、やり方変えたりひっくり返したりしただけで、実は簡単な答えがすぐそばにあったりするかもしれない。
メリーポピンズを観て、皆さんも今一度童心に帰ってみてはいかがだろうか。
日本人には難しい摩訶不思議なロシア人の名前
さて、今日はヨーロッパの旅行記から一旦筆休め的に趣向を変えて、世にも奇妙なロシア人の名前についてお話ししていきたいと思う。
ロシア人の名前ってほんと奇妙なの。。。でも調べれば調べるほどに面白い。
世間的には〜スキーとか、〜ヴィチ、〜コフを名前の語尾につけりゃそれでロシア人っぽくなるだろう、それでいいだろ、とかいう適当な思い込みがあるが、全然良くない。ロシア人を侮辱するな。
ロシア人の名前はそんな単純な話でもないんだぜ〜。
そもそも女性形か男性形かによっても変わってくるというのは声を大にして言いたいところ。
それよりもっと日本人に馴染みのない風習が、いわゆる父称という習慣だ。
ロシア人で一体、みなさんは誰を最初に思い浮かべるだろうか。プーチン大統領?
俺は真っ先にプーチンを思い浮かべてしまうのだが。
ではさっそく、そんな彼の本名を例にして根掘り葉掘り考察してみよう。
彼の本名はウラジーミル・プーチン
世間的にはこれで終わりといきたいところだが、ここでロシア人の名前の一番の特徴である”父称”なるものを挟み込んでみる。
まぁミドルネームというやつだ。すると、
こうなる。
父称というのは何か?それは父親の名前からもらった名前、ということさ。
つまり、ウラジーミロヴィチ=ウラジーミルの息子という意味がある。
というのが、簡単に言えばプーチン大統領の本名の意味だ。
名前の語源はヴラディ(支配せよ)+ミール(世界、平和)=ウラジーミルなんですけど、それは本件とは関係ない物騒な話なのでまた別の機会に。
だからロシア人の名前ってのは、つまり、名前+父称+姓で構成されるのだ。
せめてこれだけは覚えて帰っていただきたい。
あれだよ、すげえわかりやすく言えば
山田太郎くんのお父さんが山田小次郎だった場合、山田太郎の本名は、タロウ・コジローヴィチ・ヤマダンスキーになるわけよ。
そんな奴はいない。
冗談はさておきプーチンという姓はロシアでは珍しく、一説によればかつて帝政ロシアを牛耳り崩壊に導いたとされる妖僧ラスプーチンからきている、とも言われている。
ロマノフ王朝が崩壊した遠因にもなったわけだから、ラスプーチンという姓は縁起が悪いとされた。
そこでラスを取り除き、プーチンだけが残った、という具合だ。
まぁラスを除いたところで結局ラスプーチンと同じように、彼が良くも悪くも現代ロシアに絶大な影響力を持っているのはとても不思議なことですがね。
ちなみにロシアで一番多い姓がスミルノフ(1.8%)だそうな。
語源はロシア語の形容詞・スミルヌィ(温和な、従順な)という意味。
ロシア人が穏やかなもんか。
確かにそのご指摘、ごもっともです。
他にもイヴァノフ(イワンの息子)だったり、クズネツォフ(鍛冶屋)だったりが多い姓らしい。
もちろんプーチン大統領のようにウラジーミルの息子のウラジーミルがいるんだから、あのでかいロシアやウクライナやベラルーシには、イワンの息子のイワンだって存在するのだ。
その場合、イヴァン・イヴァノーヴィチになる。
さて、そんな彼の姓をイワノフにしてみよう。
するとイヴァン・イヴァノーヴィチ・イヴァノフとなる。
日本語にすると、
イワンの子孫の、イワンの息子の、イワン。
つまり、イワン・イワン・イワン。
ゴリラの学名みたいだ。
ロシア全土にお住いのイヴァン・イヴァノーヴィチ・イヴァノフさんに大変失礼だが日本人からすれば本当に奇妙な名前。
かの有名な文豪ゴーゴリの著作にも、そんな奇妙な”イワンの息子のイワン”をネタにした本があるのでそちらも是非参考にされたし。
本来は姓そのものに”〜の息子”という意味が入っていたのが、それは16世紀、ロシアの歴史がまだ始まって間もない頃。その時代の名前というのはイヴァン・イヴァノフ(イワンの息子のイワン)と表記するのが一般的だった。だから父称はこの時点ではまだ存在していない。
他にもピョートルの息子って意味のある”ペトロフ”という名字もある。
イワン・ペトロフ(ピョートルの息子のイワン)というロシア人もその頃から存在していたってわけだ。
しかし親から子へ、孫へと世代が進むにつれて本来”〜の息子”という意味のあったペトロフやイワノフ、他にもマカロフ(マカルの息子)などの姓が、
もう今の父親の名前はアレクセイとかミハイルだとか、全然違う名前なのに、
それらが本来の意味を成さずに姓として使われ続ける、という事態が発生してしまう。
つまり、こんな会話が生まれるってわけだ。
「やあ、僕の名前はピョートル・ペトロフ」
「ということは君のお父さんの名前も、ピョートル?」
「はあ、何言ってんだいアホ、僕のパパはセルゲイだ。ピョートルなんて顔すら知らねえぜ、先祖にいたかもしれねえけど」
ロシア人は父親の名前をどうしても息子の名前の中に残したかったんでしょうね。
そこでロシア人は姓とは別に、ご丁寧に父称なんてものを作ってしまうわけです。
なので名字がペトロフ(ピョートルの息子)なんだけど、セルゲイの息子と名乗りたくてセルゲーヴィチっていう父称が生まれたわけだ。
じゃあ、〜の娘と言いたい場合は?
当然、あるわけです。
近年ノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチさんのお名前が微妙にややこしく、いい例なので取り上げることにしよう。
ややこしいのは彼女の姓が〜ヴィチで終わっていること。
だが一般的にロシア人女性の父称が男性名詞の〜ヴィチで終わることは有り得ない。
〜ヴナで終わることが一般的なのだ。
スヴェトラーナさんの本名は、スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシェーヴィチ。
アレクシェーヴィチって父称なんかじゃなくて、れっきとした姓なんだよね。。。
ややこしいね。〜ヴィチで終わる姓ってベラルーシ人には比較的多いのですよ。
多分この場合は”アレクセイの息子”という原初の父称の名残なのかもしれませんね。ペトロフやマカロフなんかと一緒です。だからこの方の姓の場合は、”アレクセイの子孫の”という日本語訳が適当な気がします。
つまりスヴェトラーナさんの父親はアレクサンドル、ということが彼女の名前から伺えますね。
最近やけに脚光を浴びているロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世(本名・ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)の末娘アナスタシアですが、
彼女の本名はアナスタシア・ニコラエヴナ(ニコライの娘)・ロマノヴァ
おや…?
みなさんお気づきかもしれないが姓の語尾も女性と男性では変わってきます。
簡単に例で表すと、
〜スキーで終わる姓は、〜スカヤ
〜ノフで終わる姓は、〜ノヴァ
〜コフで終わる姓は、〜コワ(コヴァ)
〜エフで終わる姓は、〜エワ(エヴァ)
〜ニンで終わる姓は、〜ニナ
とかとか。
他にもあるかもしれないが。とりあえず女性形のAとかYaを語尾につけりゃいい。
しかし中性名詞の〜チェンコ、〜ネンコ(ウクライナ人に多い)は男女で変化しない。
まぁ、つまりチャイコフスキーの娘はチャイコフスカヤになるってわけですよ(適当)。
書いてる自分でも何を書いているのか何を言っているのかマジでわからん。。。疲れた。。。頭が混乱してきたし、読んでいるみなさんも頭が混乱してきたかと思うのでこの辺にしておこう。
これ書いてるのは全部早朝のテンションです。
これだけ分かってくれればロシア人的には十分。
お読み頂いて誠にありがとうございます。
◆総括◆
例題)
ワレリエフ家にようこそ。
父親はミハイル、妻のナタリア、その娘のソフィア、息子のアレクサンドル。
おじいちゃんはイリヤ(父方)。もう一人のおじいちゃんはイワン(母方)。
さあこの場合の4人(父、母、息子、娘)の、それぞれの本名はどうなるでしょうか。
解)
父→ミハイル・イリーイチ・ワレリエフ
妻→ナタリア・イヴァノーヴナ・ワレリエワ
娘→ソフィア・ミハイロヴナ・ワレリエワ
息子→アレクサンドル・ミハイローヴィチ・ワレリエフ
(※イリーイチは中性名詞の父称なので、仮に母親の父親(おじいちゃん)がイリヤであった場合でも、母親の名前はナタリア・イリーイチ・ワレリエワになる)
上記の問題をマスターすれば君も立派なロシア通だ。
ちなみに名前+姓で呼ぶより、名前+父称で呼ぶとなんだかよりお上品な呼び方になりますわよ。おほほ。
帝政ロシアの時代には上流階級の家でよくそんな風に呼んでいたらしい。
まあ現代じゃ仲の良い相手のことは大体愛称で呼ぶので、この呼び方はそこまで一般的ではない(ナジェージダならナージャ、アナスタシアならアーニャとかさ…)。
でも男同士だったら仕事仲間、同僚のことを名前+父称で呼ぶことが現代ロシアじゃよくあったりする。
ロシア人が出てくる映画で、ロシア語に耳を澄ましてると相手のことを確かに名前+父称で呼んでいても、日本語の字幕では姓しか表記されていない、なんてのはよくある話。
だってミハイル・セルゲーエヴィチとかより”ゴルバチョフ”の方がしっくりくるでしょ、日本人にとって。
「なあピョートル・イヴァノーヴィチ、今日の仕事はどうだった?」
「最悪だったぜ、アレクセイ・イヴァノーヴィチ。工場が丸焼けになっちまってよぉ…ソ連製マッチは燃えないってもっぱらの噂なのに案外よく燃えたんだ…自分でもたまげたぜ。おかげで俺は最初当局に破壊工作の疑いをかけられちまってな、「まぁ、質が悪いはずのソ連製マッチがよく燃えるという宣伝になってよかったじゃないか」と言ったら頷かれて、なぜか釈放されて」
「よく逮捕されなかったなぁ」
「で、あとで仲間に聞いたら結局倉庫にあったのは全部スウェーデンから密輸したマッチだった、というオチ」
(二人、爆笑)
「ところで意識したことなかったが、お前の父さんと俺の父さんの名前、一緒なんだなぁ」
「おっと…聞いて驚くな、それだけじゃないさ、俺の名字も実はイワノフさ」
「!?何…!?驚いたな、俺の名字もだ…!」
ってな光景もソ連時代にはあったんでしょうかねえ。知りませんけど。
それでは今日の話はこれで。
完全に余談です。
それじゃあ、この辺でバイバイ
欧州遠征録【4】ノイシュバンシュタイン城。中世都市ディンケルスビュールへ。
もう二月を迎えましたね。
早いもので2019年もひと月が経過してしまう。新年早々いろんなことがあって大忙し。ただ最近は妙に嬉しいことが続いていて毎日が楽しいかもしれない。
ここ一週間はずっと引越しの準備に追われている。引っ越しってのは手間と金のかかるイベント。もちろん距離にもよるが、たとえ近い距離に引っ越すにしてもやっぱり面倒なことはさほど変わらない。
なによりネット回線の解約手続きが厄介。
以前住んでたアパートの場合はネットは管理会社が勝手に備え付けてくれてるやつだったので、その辺は解約する必要もなく今思えば非常に楽だったが、今住んでいるところは自由に好きな回線を引けるので自分で通信会社を選び、設定してもらう必要がある。
結局安くておトクな回線が引きたきゃそういう業者を自分で選べってこと。
自由に選択できるのはいい反面、支払いや諸手続きを全部自分でやらねばならないという意味では負担となる。どうせどの通信会社もあの手この手のせこい手でわけの分からんプランを提示しては消費者を混乱させて、最終的には効率よく金を搾り取れる方へと誘導する。というかどこを選んだって金は搾取される。やれやれ、これだから資本主義は。。。
9月にここへ入居した時、俺もおすすめに任せてソフ●バン●光とかいう会社の回線を引くことになった。しかしこいつがなかなか曲者で、使ったことのある方ならわかると思うが電話の受け入れ態勢が非常に劣悪だ。
特に解約の電話は繋がらん。そりゃそうだ。
オペレーター増やす気は無いのかとキレ散らかす。
何にせよこれは困った話で1時間待っても繋がらなかったという話すらあるというじゃないか。通信会社の謀略なのでは無いかと疑ってしまう。いくら待っても繋がらないようにして、お客の解約したいという戦意を著しく削いでしまおうという腹なのでは?
解約できずにずるずる引き伸ばして結局何年も払い続ける羽目になる、なんていうケースも少なくはない。
もうなんて言うか、電話以外で解約できるようにしてくれねえかな。
なんでネットで解約手続きできないんですか。
何の話だったか。ああそうか、引越しが大変だって話をしていて。
近所のスーパーから逐一ダンボールを抱えて帰宅するのもなかなかに骨の折れる作業。
みかんと、デカデカ書かれたダンボール抱えて車通り多い歩道歩くのクソ恥ずくないか?想像してみて。
いや、、こんな話をしたかったんじゃないです。
すみません。
前回までのあらすじ。
らべると同行者T先輩は二人でフランスの首都パリを脱出し、ドイツ南部の都市フュッセンまで辿り着き、そこで一泊する。
ってな具合でかなりざっくり要点だけを絞った前回までのあらすじだとは思うが、さて、何故我々が一見すると何も無いような田舎町、ともすると聞いたこともないような田舎町フュッセンなんかにやってきたと思う?
実はこの街の近郊には世界的に超有名な城であるノイシュバンシュタイン城がそびえている。
多くの人が聞いたことがあったり、一度は目にしたことのある城だとは思うが、実はこの城、ディズニーランドの象徴とも呼べるシンデレラ城のモデルだ。
さて我々は、そんな城を目指すことにする。
ノイシュバンシュタイン城で皆さまにお気をつけ願いたいのは、内部を見学する際には必ず事前予約が必要であるという点。
どうやら城の中を見学する際、数人単位の団体で城内部をぐるぐるまわるらしく、だから予約によって何時には何人、何時の回で何人〜だとか、そういうのを決めるらしい。
〜らしい、ってこの人やけに他人事っぽく供述するなぁと思った方、あなたのその勘は正しいです。
何故なら我々は予約した集合時間に間に合わせて到着することができず、結局城内部の見学に失敗したのである。
では何故そうなってしまったか。
話を当日の朝から振り返ってみましょう。
ご覧の通り、すがすがしい朝をホテルで迎えました。
一度ホテルを出てちょっと朝の街を散歩したり。
朝ごはんはホテルのバイキング。
そういえばパリのホテルで食べた朝食のバイキングもなかなか美味しかったなぁ。ヨーロッパのバイキングはチーズとハムの種類が豊富すぎてびっくりだ。ほんとに。
ハムだけで何種類あんの、って感じ。言葉じゃうまく言い表せないがとにかくすごいんだぜ。
あと、さすがはドイツ〜って感じで白ソーセージ(ドイツ語でヴァイスブルストっていうらしい)が美味しゅう。スクランブルエッグとかと一緒にね。
ブルストっていう語感が気に入ったT先輩はその後もレストランでブルストという字面を目にするたび、ファービー人形のモノマネなのか「ファーーーーーー、ブルスコブルスコw」と呟くようになる。
疲労が限界に達した者はこの手の呟きの頻度が多くなる傾向にある。
さて、いよいよ市街地から城に向かおう。
時刻はちょうど7時前。集合が確か8時半とかだったんだが、何が起こるか分からんので早めに行くことにする。ホテルはチェックアウトだったんですが背負いこんだ重たい荷物は全部ホテルの受付で預かってもらうことに。
さっそくバス乗り場らしきところに向かう。しかし一体切符はどこで買うんだろうか。事前に得た情報では切符はバスの中で販売しているということらしい。
料金は片道2ユーロ。
というか予定到着時刻の7時25分になってもバスが来ない。海外でバスが遅れたりするのは日常茶飯事だしそこはあまり気にせずに気長に待つ。そのために早く出たのだ。
予定時刻より約30分遅れでやっとバスが来ました。
さぁバスに乗ってみよう。周りの乗客は予めチケットを用意しているらしく、せっせと運転手にチケットを見せておりました。
さっそく運転手に切符を要求される。
持っていないと言う。え、だって、ここで払うんじゃあ・・・ないんすか??
というわけで2ユーロを差し出す我々。すると、
「Go Back!」
なぜかバスを叩き出されてしまう我々。バスは俺らをぽつんと残して走り去っていく。
今のGo Backとはどういう意味!???
バスの後ろに行けという意味なの?
それとも我々がそう受け取ったようにバスを出ろという意味だったのか、誰もいなくなったバス停で日本人二人の議論が始まった。
10分後、もっかい次のバスが来た。次の勝負には勝つ。いくぜ。
列に並んで乗り込み、運転席で再び2ユーロを見せる。
ところが再びバスの運転手は
「GO BACK!!」と言い放つ。
おパニック💢
ま、ちょ、ままま、ま〜〜、!!!
マーーーー!
悲痛な叫びにも関わらず、バスは無慈悲にも走り去った。
しかし無愛想な運転手の言葉の中に、うっすら4という数字があったことを振り返る。
…4?
もしかして往復料金4ユーロ払えば乗せてくれるってことだったの!?
しかし、もはや集合時間にも間に合わない。城のツアーは断念せざるを得ない。
もとはといえば予定時間から30分近くもバスが遅れるのが悪いのだけど??
いくら向こうが悪いとはいえ、フュッセンまで来た以上はなんとしてでもノイシュバンシュタイン城に向かわねばならない。旅人としての義務だ。
結局、あれこれ、そこらへんの親切なおじさんたちに色んな情報を教えてもらって、タクシーを見つけて城の麓まで向かうことに。
勘違いしちゃいけないが基本的にドイツ人はとても親切だよ(凶暴ともなるけど)。
ああ、最初からこうやっときゃよかったんだ。料金もそんなに高く無いし・・・。
海外のバスや電車の時刻表ガン無視を侮ってはいけません。
困った時はケチらずにタクシーを使いましょう。
近くまでやってきた時の見上げた城の壮麗さには目を奪われる。
城だけではない、昨日駅から見た岩山の美しさも今となってはより近い位置で楽しむことができるのだ。
この城までは長い山道を登って向かいます。周囲は何故かアジア人だらけ。
逆に欧米からの観光客がとても少ないような気も。
日本人と韓国人と中国人ってなんでこんなに集まるところも一緒なんでしょうかね。やっぱり似た者同士だ。
我々は近くの売店で瓶ビールを購入する
朝からビールを飲むことの背徳感はすごい。舐めていたぜ・・・。
美しい大自然を眺めながらビールを味わおうという算段である。
ビール瓶を片手に歩く我々はいかにもアル中。
周囲の視線など御構い無し。握りしめているのはスポーツドリンクだぜ?と言わんばかりに、城へと続く坂道を黙々と登っていきます。
我々の真横を、観光客を乗せた馬車が颯爽と駆けていく。ああいうのに乗るのも一つの観光スタイルなのだろうが歩きながらも案外悪くない。
馬車が糞を投下していくのを後続の車(うんこ回収車とでもいうべきか)が即座に拾い集めていくので道は理論上汚れません。だがそんな便利な車など存在しなかった中世から近世に至る馬車の全盛期には、道端はウンコで汚れ放題荒れ放題だったでしょう。
歴史の社会見学をした気持ちだ。
特に17,8世紀のパリじゃ馬に限らず人間の大小便も全て窓から街路に投げまくっていたじゃないですか。まさしく垂れ流し状態。水洗トイレなんてなかったし。
そういやヴェルサイユ宮殿って、その辺の廊下とかで貴族が放尿などしていたそうですよね。。。そう考えるとうーん、、、ちょっと行く気が失せましたわよね。意味不明だよ。
そんな狂った世界で道端のウンコを極力踏まずに歩けるように、と誕生したのがオトナの女性に必須のアイテム、ハイヒールだ。(諸説ありますけど)
当時の女性は丈の長い長いドレスを履いていましたから裾がなるべく汚れないように、という配慮ですね。
さて我々が先に足を進めていくと、突然雑木林が開ける。
そこから覗かれる景色の雄大さに腰を抜かす。
アルプスの美しさをここまで肌で実感したのはこれが初めてだろう。
そのまま先に進むと、いよいよ城らしきものが近くなっていきます。
岩山にそびえる城って感じ。 でかいな〜。当然だが先ほどとは迫力が段違いだ。なんにせよ、よくもまぁこんな場所に城なんて建てたもんだなあとただ驚くばかり。
城を建設したのは19世紀のバイエルン国王ルートヴィヒ2世ですが、彼は、その、極度のメルヘンオタクでして。。。というか非常に芸術家肌だった。
国のあちこちに城を建設しまくり、そのせいでバイエルン王国(ドイツは日本の藩みたいに昔はいくつかの国に分かれてた)の国家財政は底を尽きかけるわけです。国を憂いた大臣たちによる圧力で若くして王の座を終われ、それから数年後、謎の死を遂げる。
一説によれば暗殺されたとか。
狂王という呼び名もある彼だが、彼がこの城を作らなかったら今頃世界中から観光客が押し寄せることもなかったんだよね。
シンデレラ城もどんなデザインになっていたことやら。観光によってこの地方の経済が潤っているのも事実。もちろん岩山に作ったというだけあって居住性は最悪だ。
王がこの城に住まうこともほぼなかったとか。
そして、やっとこさ着く。
本来ならあそこの、ほら、わかるだろう、あの見えてる階段の先のさ、ほら、あんところから中に入れたんでしょう。
それとも別の入り口があるんでしょうかね。今となっては知りませんが。
知る由もないよ。
中に入りたかった?
入りたかったね。
俺は悔しいよ。
なんだよGo Backって。今もわからねえよ。
他に撮るものはありません。以上。解散。
日本の城でもそうだが、城ってのは結局中に入れないなら遠目に見るのが一番楽しい。
城の手前まで来ても特に何があるというわけでもない。そういうもんさ。
美しい景色を眺めながら美味しいビールを口にできたわけだし十分満足したので早速もと来た道を辿って帰ることに。
帰りはちゃんとバスに乗れましたね。
今度は片道だから2ユーロ握りしめて運転手に渡したらちゃんと券を買えましたね。三度目にしてようやく戦いに勝利したという感じです。
まじで最初のあれは何???
バスに乗って再び麓の市街地まで。お腹が空いたのでドイツ料理をと思ったが、当時の我々は何を考えていたのか分からないが偶然見かけた中華料理店を目にして飛び込んだ。
初めて海外で食べる中華料理!全然本場ではないから結局日本で食うのと何も変わりゃしない。物珍しさは皆無だったのでこの時の写真はありません。残念。
でもなんの変哲もないチャーハンでしたよ。ごちそうさま。
さて電車で我々はさっそく次の街へと向かうことに。フュッセン市内をゆっくり観光する暇もなく駅に駆け込む。何かと時間がないのだ。
さぁ、遥か北を目指します。
ところで。。。俺はロマンチック街道の総延長を侮っていたよ。
これは拾い物の画像だが、一番南にあるのが今我々のいるフュッセン。
これを2日かけていろんな街を観光しながら北上するという計画で、当初ネルトリンゲンにも立ち寄ろうと考えていたのだが、何をバカなことを…今日の夕方までにディンケルスビュールに到達するのに約4、5時間かかるというじゃないか。
ホテルはもう予約しちまってるんだぞ?
いちいちどっかの街に立ち寄って観光などしていては夜遅くなって本命のディンケルスビュールもろくに観光できなくなっちまう。
そりゃそうだ。。。日本にいた時はこんなに距離があるとは思わなかったが、よく考えてみりゃ九州縦断するくらいの距離があるんだ。
単にロマンチック街道と呼んで侮ると大変。街道上の全部の都市を回ろうと考えたら最低でも4日はかかると考えた方が良い(それでもかなりハードですな・・・)。
あまりの無計画ぶりに T先輩もどことなく不機嫌になっておりました。
大変申し訳ない、行き当たりばったりな性格なもんで。
それにしても電車が途中何度か停車して、一度他の電車に乗り換えねばならないこともあって完全に無人駅みたいな小さな駅で降ろされたりもしました。
でもこんな何てことない田舎でもすごく綺麗なもんです。
やはり電車でガタゴト揺られる旅はそれなりに良いものだ。
慌ただしさや心のざわめきもすぐに鳴りを潜める。
ついにネルトリンゲンに辿り着き、ここで電車を降ります。ネルトリンゲンといえばあの進○の巨人とかいう漫画の舞台のモデルになった街です。隕石が落ちてできたクレーターに作られた城壁の街だから丸いとかなんとか。
市内の観光はしません。というかそんな時間はないよ。
今度はバス停に移動してディンケルスビュール行きのバスに乗ります。
バスでしか行けないんですよねえ、あの街。。。
ディンケルスビュールは交通の便が少し悪くてロマンチック街道の旅ではツアーでもない限り飛ばされてしまいがちだが、れっきとした美しい街なのだ。
しかしバス乗り場にやって来たはいいものの、どこにもバスらしきバスが見えない。
ディンケルスビュール行きはどこ。。。
乗り場は確かにここで正しいはずなのになあ、と思ってバス停付近をうろうろしていると小さなマイクロバスが停車しておりました。まさか、あれが…?
半信半疑で近寄ってみますが、しかしなんかどうも違うような気もするな。
だってマイクロバスだぜ?せいぜい5、6人乗りの小型のあれだぜ…?
そう思って遠ざかりかけた時、若いお姉さんが近寄って来て「あなたたちディンケルスビュールに行きたいの?」と声をかけてくれた。「行きたいです!」と頷くと、
「ちょうどよかった、私たちもディンケルスビュールに行くの。あのバスね」
と、彼女は先ほどのマイクロバスを指差して。
どうやらやっぱりアレがそうらしい。。。冗談などではなかった。。。
我々はほっと安堵に包まれマイクロバスに乗り込むことに。乗り込もうとした時にやっとマイクロバスの後ろの電光掲示板がディンケルスビュール行きを表示する。まじでか。
さっきのお姉さんのお友達か、バスの前にはもう一人の若い女性がいた。どちらもすごく綺麗な方です。彼女たちは自転車をバスに積み込んでいる。ドイツ人は電車にも自転車を持ち込むくらいに自転車大好き民族。
運転手のおじさんが一人いたので、彼にお金を渡すとすんなりチケットが買えた。こうもすんなり乗れちゃうと今朝の苦労は一体なんだったんだい、って気分にもなるね。
バスの運転は荒い。運転手との距離も近い。
なんだこの旅。
カーステレオから流れてくる音楽でノリノリになってる前の座席三人のドイツ人。
後ろの席でおとなしく縮こまる日本人二人。
なんだこれ。。。何?
1時間くらいであっという間にディンケルスビュールに到着。
時刻はちょうど17時くらいで、なんとか無事にたどり着くことができてほっと安堵する。バスから降りると最初は新市街の方向に進んだのだが、間違えたと気づいて旧市街の方に引き返す。するとそこで先ほどバスでご一緒した二人のドイツ人女性と再びすれ違う。
なんか、やけに笑顔なんだよな。
彼女たちの前を通り過ぎる際、案内してくれてありがとうという気持ちを込めて
「アウフヴィーターゼン(さようなら!)」と言ってみる。
この旅で初めて使うドイツ語は案外勇気がいるね。だが向こうも笑顔で同じようにアウフヴィーターゼン、と言って見送ってくれました。言葉が通じるってすごく嬉しいなとこの時、強く思います。同時に、もっと英語喋れたら楽しいんだろうなあって気持ちもますます深まるわけで。それはこの時に限らず旅全体を通じて感じたことだ。
③ディンケルスビュールで「夜警」体験。
さて旧市街に入るにはこのお堀を越える必要があります。
中世の街というのは城塞都市であり、見張り台つきの城壁に囲まれているのが一般的。
掘にかけられた橋を渡って旧市街に入る。
この門の向こう側に美しい街並みが広がっていると思うと非常にワクワクです。
さ、門を抜けると…
いかにも古そうな建物が軒を連ねている。そして人通りが大変少ない。
今も人がちゃんと住んでいるというのだからひどく驚きだ。
しかし、こんなに美しい街に滞在できるのが今夜限りというのは頭の痛い話。
翌日もこの街に居たかったもんです。。。今もわりと後悔しています。
第二次世界大戦でドイツ全土はアメリカ・イギリス軍による熾烈な爆撃を受ける。
ベルリンやドレスデンといった大都市はもちろんのこと、空爆はこのようなロマンチック街道上の都市にも及んだ。ひどい話だよね。
今と違って文化財を保護するような慣習の薄かった時代の悲劇。
しかし、このディンケルスビュールは米英軍の空襲を一切合切免れた数少ない中世都市。1600年ごろからの街並みが当時のまま一つも変わることなく保存されているのは本当にすごいことなんです。
「ゴールデネ・ローズ(黄金の薔薇)」という名前のホテル。
内装が非常にアンティーク調で美しい。築400年は伊達じゃない。かつてどっかの国の王室の方も泊まったことがあるホテルらしく、壁にはその時の写真が飾られております。
これはイギリスの王族かな・・・?
日も暮れてきたしホテルを出て、ご飯を食べるついでに街を散策する。
今夜はドイツの伝統料理を食べようと気合十分。ドイツ料理かあ、ミュンヘンで食べたような肉の塊くらいしか頭に浮かばないな。他にどんなものがあるんだろう?
とりあえずビールが飲めりゃそれでいいやという気持ちになっていた。
非常にこぢんまりとした街で20分もあれば全部ぐるりと一周できるのがディンケルスビュールだ。それゆえに見学すべき博物館や目立つ建物もほとんどない。
聖ゲオルグ教会という建物がこの街で一番大きく、目印になる。観光客がやけに少ないのも頷けるな。
だがこの街でしか体験できない 行事があることを知っているからこそ、俺はあえてこの街に一泊することを強く望んだのであり。
それが何かは後ほど話すとして、ひとまずレストランへ行きましょう。
食べたのはシュニッツェルというバイエルン地方の豚肉を薄く叩いて引き伸ばし揚げた伝統料理。付け合わせがポテトというのがまたドイツらしい。
T先輩は大きなカリーブルストを頼んでいました。
さて、ご飯も食べ終えてホテルに戻ることになりましたが時刻はまだ7時半。
ホテルに戻ると疲れ果てたT先輩はベッドにダウンしておりました。
夜9時から聖ゲオルグ教会の前でお楽しみの催しがあるというのに先輩は「一人で行って来なさい」と呟いてぶっ倒れてしまう。今日1日無理させたことをやや申し訳なく思いつつ、シャワーだけ浴びて早速ホテルを出て集合場所に向かう。
夜9時。教会の前にはぞろぞろと人だかりができている。
さて、こんな教会の前で一体何が始まるというんだ。ワクワクだ。
…人だかりの前には、いつの間にか角笛を持ったおじさんが立っていた。
中世の衣服やマントを身にまとい、ぶぉ〜〜〜と勢いよく角笛を吹きます。
そして、ドイツ語で力強い声を響かせました。
何と言っているのかは全く分からないが雰囲気だけでめちゃくちゃ楽しめる。
これが「夜警」と呼ばれる中世の風習。火災や犯罪などを防止するためにこうやって街の人たちに呼びかけていたらしい。日本で言うところの「火の用心」。
角笛を吹くってのがまた格好いいだろう。おじさんは教会の前の広場から町中の飲食店をぐるぐる回っていく。我々集まった観光客もそんな彼の後についていく。
街のあちこちの飲食店を回りながら、おじさんに店の人がワイングラスを差し出します。ほら、サンタさんが家に来たらジュースやクッキーをご馳走するって話が海外じゃよくあるじゃないですか。あれと一緒(?)
店の人から受け取ったワインをまずはおじさんが一口。
そしておじさんから、集まった観光客に一人一人グラスを順に回していきます。
お隣にいた英語圏から来たと思われるご年配の老夫婦からワイングラスが回ってくる。
「さあ飲め、勢いよく」
おじ様に言われるまま、一口飲むことに。
「美味いだろ」と親指立ててくれました。本当に欧米の人ってのは愉快だね。
そしてそれをまた別の人に渡す。回し終えるとまた別のお店の前に移動して・・・。
言葉は通じなくても当時の夜警の雰囲気がビシビシと伝わって来るのがすごいよ。なんでも角笛おじさん、観光シーズンはほぼ毎日のようにこの夜警やってるんだと。
仕事なのかボランティアなのか分からないが。
そんな夜警がひと段落すると隣にいたドイツ人の男性から突然英語で声をかけられた。
「君はどこからやって来たのかい?」
30歳くらいの男性。日本から、と答えると話が盛り上がった。
どうやら彼は日本には何度か行ったことがあるらしく、東京で開かれたオクトーバーフェスト(ビール祭り)ではギターを演奏しに行ったことのあるお方らしい。ギターを演奏する写真など見せてもらってますます盛り上がり、最後は彼のご家族と一緒に写真を撮った。
残念ながら俺のカメラでは撮ってないんだよな。。。本当に惜しいことをしたなあ。だが、こうやって外国の人たちと交流を深めるのは本当に楽しいことだ。旅の一期一会です。
この先の旅でもいい出会いがありますようにと願いました。
さて非常に長くなりましたがディンケルスビュールの旅はこれにてひと段落です。
明日は朝早くから次の街・ローテンブルクへ向かわねばならないのでホテルに帰ったらすっかり疲れて眠り込んでしまいました。
ロマンチック街道の旅はまだ続きます。
それではまた次回もお楽しみに。
欧州遠征録【3】パリからミュンヘン、フュッセンへ陸路移動。
今日はやけに目玉が腫れぼったいし、まぶたが異様に重たい。
こんな状況で記事を書くのもあれなもんだが文章書くのは好きなので。
最近は毎朝ほぼ5時やら6時やらに目が覚めてるみたいだ。じじいだ。
美容師には「兄さん若い人とは思えないほど肩凝ってますねえ(嘲笑)」と笑われ母親には「風呂の湯をそんなに熱くするな爺さん」と罵倒される。いや1度しか上げてないが。。。43度ってそこまで高いお湯加減かな。高いな。さっき入れたら確かにな、ってなったわ。
妙だ。こんなに毎日筋トレやらランニングやらを繰り返しているというのに老化というのは確実に進行するもんだなあ、とやけに感心してしまう。
こんにちは。これに加えて何かと記憶喪失しがちならべるです。
昨日の晩御飯、あなたはすぐに言えますか?俺は言えません。悲しいことですが。
今回で遠征録も3回目を迎えました。書き始めといてなんだが何回続くのやら分からんので嫌になる。
嘘です。記事のネタが続くのはありがたいこと
④国境突破、ドイツ南部の都市フュッセンへ
朝早く。5時くらいに起きた我々は大忙しで身支度を整える。
ホテルを飛び出して朝7時の電車に飛び乗って我々はパリを脱出し、ドイツ南部の大都市ミュンヘンへ向かい、最終目的地フュッセンを夜までに目指すのであった。
陸路で国境を越えるという人生初の体験だよ。すでにワクワクが止まらない。
身支度の時、何せ当時コンタクト素人だったのでコンタクトレンズを目に入れるのが下手すぎてひどく手間取る。旅行前に初めてコンタクトを買ったのでね。
そんな時、後ろにいた先輩のTくんが一言「僕はコンタクト童貞」などとよく分からない自己紹介をしていたのだが、正直何と突っ込んだらいいかよく分からなかったし何せ時間がなかったのでスルーした記憶がある。今思えばなかなかにパワーワードだったので、今でもこうやって記憶に残っている。じわじわくるね。
夜明けまえの真っ暗なパリを歩くのはなかなかにスリリング。
明け方とはいえ暗い時間に外国の街を歩くのはこれが初めてなのだ。その恐れももっともだろう。
写真を撮る余裕なんてなかったのでこの時の写真は一枚も無い。今思えば撮っておけばよかったかも、なんて気持ちもあるが露光とかシャッター速度とか、ミラーレス買ったばかりの自分には全く使いこなせず(今も全然使いこなせていないが)暗闇でカメラを使うという考え自体存在しなかったようで。
タクシーを使えばいいものを「いやこんくらい歩けるっしょ」というTくんの無茶振りで二人、暗い街路をとぼとぼ歩く羽目になった。この先こういうことが多々ある。
いや本当に歩けるのか…?地味に遠いんだけど。。。
目指すはパリ東駅。この駅からドイツやルクセンブルク方面に向かう列車が出発する。
第一次世界大戦の際には数多くのフランス軍兵士がこの駅から西部戦線に向けて出征したという。歴史のある駅なんですなぁ(1800年代中頃に開通したとか)。
駅に至るまで通行人にはほとんど出くわさなかった。逆にそれが怖さを増す。
ひったくりとかやばい連中(ネオナチとか)に絡まれぬよう常に周囲を警戒しながら歩く。ここは日本じゃねえ。警戒しすぎてしすぎることはないからね。
鉄橋を越え(ほんまにこんなところ通れるんか…?)20分くらいでやっと駅の裏手までたどり着くことができた。
駅の裏手は、その、なんか。暗いし、汚い。
小便臭いし酔っ払いの若者どもが騒いどる。
まぁ、でも心配していたような怖さとかそういうのはあまりなかった。
福岡の天神とか、あの辺の飲み屋街の方がもっとやばいけどね。あそこはマジのスラム街ですし。ヨハネスブルクだ。ただちにコンドル軍団(※ゲルニカ空襲を敢行したドイツ空軍)による空爆を要請する。
そんなこんなで、おそらく6時ごろに駅に到着。
9月の6時と言うともっと明るい気もするが暗いし何より薄ら寒い。駅に到着できたはよかったのだが、ここでちょっとした困りごとが。
前の晩にネットで調べた限りでは確かにドイツへ向かう高速列車(ICE)が走っており、予約なしでもその場で切符が買えるということだ。しかし切符を買うための券売機を見つけるのに我々はしばし翻弄される。
完全にその辺りの情報は俺に任せっきりだったTくんの顔に急遽不安の色が滲む。
「本当にミュンヘンまで行けるの?」的な圧を背後からひたすらかけてくる。だだだ大丈夫だってと力説するが(力説できていないが)、意外と妙なところで心配性な彼の不安を払拭するためにも何としてでも切符の買い方を探し当てねばならない。
ようやく駅の端に券売機らしきものを見つけ、そこでミュンヘン行きの切符の表示画面を探し当てることに成功。
フランスの券売機とはいえ、きちんとフランス語以外にも英語表記やドイツ語表記も選択できるのでとてもありがたい。英語表記を選択し、200ユーロ(約2万円)ほどを支払ってなんとか切符の購入に成功。こうして国境を突破することが叶いそうだな。助かる。
少し待ってから乗車時間20分ほど前になってホームに向かう。電光掲示板のおかげで乗り場はそこまで迷わずに済んだ。
初めての長距離列車移動なのでワクワクは十分、ドキドキや不安も十分。
驚いたのはパリの地下鉄と違って改札をくぐる必要がないこと。
日本では地下鉄でも新幹線でも改札を通る必要があるが、日本で言う新幹線にあたるこのICEはどうやら車内で切符を見せるだけでいいらしい。
まあ、なんか改札無い方が外国の駅って感じだね。
なんとか座れました。
これで一安心。それではミュンヘンまでの約3時間の旅を、のどかな景色を楽しみながら過ごしましょう。
ずっとカメラを構えて車窓からの風景を眺めていた。
NHKだったかなんだか忘れたが車窓からの風景とか、とにかく外国の景色をただ垂れ流す番組、ああいうの大好きなんだよ。だから実際にそういうことするのは本当に憧れでした。
ミーハーなのでクラシック音楽を聴くなどしてみる。モーツァルトはオーストリアの作曲家だが、フランスの景色だろうと何だろうとこう綺麗なら何だって合うんだな。
いよいよフランスとドイツの国境地帯に差し掛かる。アルザス地方といえばストラスブールという都市が有名。戦争によって何度もドイツになったりフランスになったりを繰り返したが、最終的に第二次世界大戦でのドイツの敗北によってその所有権はフランスへと移ることとなる。
そのため街にはフランス様式の家やドイツ様式の建物が混在していて、そのせいか非常に美しい街並みを形成している。
今回もそんな歴史あるストラスブールを観光できたらよかったのだが時間がないので通り過ぎることに。残念だ。ホワイトア○バムとかいう某エロゲギャルゲのロケ地でもあるよね。
さて、いつのまにか国境を通過していたらしい。カールスルーエとかいう都市で電車が一旦停車。車窓から停車駅の表示板を見つめると、それまでずっとフランス語だったのが、ようやくドイツ語に切り替わっていた。
ついに我々はドイツ領内に足を踏み入れたのである。
ちょっと感動した。でも国境を跨いだ感じなどしない。今こそ「国境というものは人間が引いただけの線に過ぎない」という誰かさんの言葉が思い起こされる。
まあそうは言ってもね、国境跨いだだけで随分と言語も人種も変わっちゃうんだから国境ってものはそう簡単には決して消えないし、やっぱり見えなくてもずっと残るもんだと思いますよ。
何度か駅で降りたりしたが単なる乗り換えだし、順調にミュンヘンに向かっていた。何事もない静かな列車旅だ。
だがのんびりとくつろいで座っていた我々の何列か前の座席じゃ…なんか、昼間っからやけに賑やかじゃないの。
酒を飲んで酔っ払っているのか、若い大学生なのか自分たちと年齢がほとんど変わらないようなドイツ人の若者たちがわいわい騒いでいる。日本で言うところのパリピか。
観察するだけで面白い。これぞ異文化交流の醍醐味…
うわ、こっち来たやんけ。
二人か三人の男たちに、一気に我々小柄なヤーパン(日本人)は囲まれてしまう。
ドイツ産マッチョに囲まれちまった。怖い。さぁ、こういう時はどうすればいい?
でもちゃんと英語で話しかけてくれた。あら、意外に優しいのね。。。
「あんたらどこに行きたいの」
まずはミュンヘン行ってその先のフュッセンっていう街まで、と答える。
「俺たちからこのイカしたサングラスと酒、買ってみねえか?」
大体こんな感じの会話が交わされた。サングラスっていうか、、、あんたが掛けてるやつだろ?それ、どう見ても日本の百均で売ってるようなパーティーグッズの類じゃねえか。少なくともイカしてはない。てかタダじゃないのか。
あとちっちゃいプラスチックに入ったレモンリキュールかなんかを渡された。
というか買わされた。
いくらだったっけな、たしかサングラスとセットで5ユーロ(500円)くらい渡した。地味に高いな。
とにかく受け取っただっさいサングラスを掛けて俺はレモンリキュールを握りしめる。
「おら、飲んでみろ」
おう、飲んでやるとも。ジャップをなめるなと意気込んでぐいっと一気に飲み干した。量も度数も大したことがないのでちょっと拍子抜けだ。てっきり強いもん想像してたから。
すると場がわあ、と盛り上がる。
いいねえ、こういう体験は貴重だ。
わけの分からんシチュエーションだが、なんだか楽しくなってきたぞ。
というか電車で騒いでても周りの乗客は全然嫌な顔をしていない。むしろ我々のやりとりを見て笑っている具合だ。駅員も全く問題なさそうに通り過ぎていく。
日本とは全然違うもんだなあと思い知らされた。
隣にいたTくんももらったサングラス(眼鏡…?)をノリノリで掛け、そんであいつら、最後は一緒に写真を撮る。いいなあ、俺も自分のカメラで撮っておけばよかったなあ、と今になって少しだけ後悔している。少しだけ。
何事もなかったようにそんなお祭り騒ぎも去り、電車はミュンヘンまであと少し、というところまで近づいている。
車窓から見える景色もとても見応えがあるものばかりだ。
そして電車に揺られて随分長い時間が経過し、ようやく我々は念願のドイツ南部の大都市ミュンヘンに到達した。
ついにドイツの都市というものをしっかりと観光させていただきます。
う〜ん、ミュンヘン。人が多いです。みんな観光客だろうか。
それにしても道がすごく綺麗だ。パリとは全然違うのは素人目に見ても一目瞭然。どういうわけだ。
ドイツ人は綺麗好きとは一般的によく言われるが、どうやらそれは本当のことらしい。ゴミがほとんど落ちていないのである。
どこも清掃がよく行き届いていて安心して道を歩くことができた。これなら旅に不慣れな若者にも、ドイツは初心者向きな観光地と安心しておすすめできるのではなかろうか?どうだ?行ってみたいと思いませんか?
ところでもう昼の2時を過ぎたところだ。
昼は何も食っていないからミュンヘンで遅めの昼食を取ろうとかそんな話をちょうど電車の中でしていたところであった。よし、それならビアハウスに行こうぜと意気揚々とテンションを高めた我々。無類の酒好きがビアハウスに行かないわけがない。
大ジョッキでビールをがっといくのは夢だ。男のロマンだ。知らんけど。
やってきたのはパウラーナービール(銘柄)を専門に扱うお店。なんていう店だったかは覚えていないが旅行雑誌でも紹介されているような有名店であることには違いない。
テラス席でもよかったがせっかくなので中で。
中の方がむしろ結構空いていた。パリでもそうだったがヨーロッパ人はみんな外で飲むのが大好きらしい。もちろんその気持ちはよく分かる。暑い日差しの中で飲むビールは格別なものがあるというのはパリで散々味わったよ。
ラドラーとかいうビールを頼んだ。全部ドイツ語だったしわかんねえ〜ビールなんて全部一緒だろうがオラァ、という軽い気持ちで頼んだが、このラドラーが個人的には失敗した。
ひたすらに甘い。。。( i _ i )
レモン風味のビールといったところだ。好きな人は好きなのかもしれないが。。。
無論甘い酒が嫌いなわけではないのだが少なくともビールは苦いだけで正解という自分にとっては拷問に他ならない仕打ちである。それを一リットルとは…。
欲をかいて大きな葛籠(つづら)を選び失敗した某昔話のばあさんみたいな末路。
みんなも欲をかいて失敗することがないよう。
出てきた料理も先日のパリと同じように憎々しい、、、いや、肉肉しい。
肉まみれである。
どういうわけか。フレンチ野郎もフリッツ野郎も食文化が似てるのならもっと互いに仲良くしろよと言いたいところだが、多分もっと本気出せばフランスの方が断然美味いのだろう。
そりゃ間違いない。こりゃ失礼した。。。世界のフレンチだもんな。。。
いやでもすごく美味しかったですよ。なんせビールに合う合う。ラドラーでさえなければもっと合っただろう。まあ、それを言っちゃおしまいよ。
どこかしら悔やまれるが。
昼を食べ終えて、ややほろ酔い気味に満足した我々はミュンヘンを観光する暇もほとんどなく本日の最終目的地フュッセンに向かう電車に乗らねばならないと駅まで足を早めた。
フュッセンまでの電車に乗っていると、とても穏やかに時間が流れていく。
ミュンヘンから大体2時間程度経った頃か。
景色ものどかで牧歌的な風景が続き、湖がちらほら見えてきてアルプスの美しい山々がそびえ立っているのが目に入ってくると興奮はより一層高まってくる。
ドイツ南部のアルプスに囲まれた地域は本当に美しい。ドイツやオーストリアでクラシック音楽が発展した理由がなんとなく分かった気がする。
風景が音楽と見事にマッチしているのだ。
来たー!
こぢんまりとした駅ですが十分に美しい。
街並みもすごく可愛らしくてカメラが手放せないな。。。
なんだここは。。。
魔法の国か。。。
夜になるとまた景色が一変しますね。というか写真が下手くそだ。ブレッブレ。
夜景は全然撮り慣れていないので申し訳ない。
さて、一旦ホテルにチェックインします。
パリのホテルと違って落ち着いていますがここもまた素敵。
ホテルに荷物を置いた後はまた夜の街を徘徊しようじゃないの。
ただ美しいですね。
朝になったらまた違う景色が見れるんだろう。
夜何食べたか忘れたんですけど、多分何も食べなかったんじゃないんですかね。お菓子くらいか。なんせ昼遅くにあんなにボリューミーな肉を食って腹がいっぱいだったので。
というか街中を歩いてて思ったのは、こんなにも夜が静かで治安がいいのかと驚きました。まるで日本にいるみたいだね。
写真を見てもお分かり頂けるようにゴミも全く落ちていない。人気も少ない。静かな田舎の観光地ということもあるのでしょうが、この後ドイツの様々な大都市を見ても、やっぱりドイツの治安の良さといい、街の清潔感は非常に好きになる。
我々はほとんど何も買うこともなく、ホテルに戻ることにする。
というか食料品を売る店らしき店が全くないじゃないか。ビールを買いに来たはずなのに。
そうか、ヨーロッパでは早く店が閉まるってことをすっかり忘れていた。。。
◆おまけ◆
先輩は疲れのあまりに壊れてしまった。もうどうにもならない。
今日電車の中で例のドイツ人にもらったクソダサい眼鏡を喜んで掛けているので余程気に入ったらしい。
でもあの眼鏡、いま手元にないんですよね。
どこにいったんでしょうね。。。捨てたのかもしれないな。。。
そういうわけでようやく長い長い1日が終わりました。しかし無事に到着できて本当に良かったです。
次回は念願のノイシュバンシュタイン城に向かった話を書きましょう。
ではでは、次の記事もお楽しみに。